2015年11月15日

山田バンビ『ひだまりの夏』最終章



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あっという間に十本のバーを越え、ゴールした。
目の前を一陣の風のように飛び去っていくのを、ミユキは自然の掟に実直に従って生きている獣でも見るように、ただ呆然と目で追った。

両脚のひざに手をのせ息を整えている歩美にミユキは手を叩きながら近づいた。

「ブラボー、ブラボー。アユったらすごいよ、いやお世辞抜きに。素人のわたしにはよくわからんが、でも、素人が感動して言葉を失うほどスゴかったぞ。これなら今すぐにでも世界陸上にでも出られるよなあ」

「無理だよ、世界陸上に出るにはA標準記録を突破しないと」

至極まっとうな答えが返ってきたことに、改めて歩美の自信のほどが伺えた。

「しかしさあ、カニカンは知らないんだよな、このこと」

「このこと?」

「つまり、アユがこっそり見知らぬ小学校で特訓してること。というより、アユの目の状態も」

「う、うん」

「そんでだよ、アユがこうやって特訓の成果が実ったとしても、カニカンが試合には出さん、っていったら悲しいよな。そもそも常識から考えたらおかしいよ、いまのこの状況。わたしのような素人相手に走っても意味ないだろ、さっきアユがいったように速く走れないと。やっぱり専門家に指導してもらわないとさ。ただ目が見えなくてもハードル飛べますっていったら、それじゃサーカス団だし。それにカニカンがOKしたとしてもお偉方がそんなもんは走らせんっていったら、苦労が水の泡だし。まあさし当たってカニカンを説得せんことには話が先にすすまんでしょ、とりあえず何か作戦あるの?」

「うーん」



さっきまでの自信にあふれた態度は消えうせ、急に子供みたいに鼻にかかった声を出した。

「実はね、わたしもよくわかんないのよね。ミユキがいうように確かに普通に考えたら試合なんかに出られるわけない。まして監督がそっせんして動いてくれるとも思えないし。なんたって一度やめさせようとしたんだがら」

「なに?」
初耳だといわんばかりにミユキは驚いた声をあげた。

「すごく疑問なの、カニカンに自分の気持ちがわかるのかなって。じゃ、なんのためにいま一生懸命練習してんのかっていわれるとそれもよくわかんないんだけど」

「そっか」

なぜかミユキはそういったっきり、この話題には触れなかった。

避けていた問題をミユキにあからさまに指摘され、歩美の不安は一気に高まった。

確かにそろそろはっきりさせねばならない時期に来ていると歩美も思った。

ほんとうに自分はやるつもりなのか。

観衆やカメラの前で恥ずかしくない走りを見せれるのか。

ミユキがいったように目が見えない割りにはうまく走っている、という程度なのか、それとも記録の最前線に立つ競技者としてやっていけるのか。



答えを出させば。



 
翌日、歩美は桐嶋みどりに電話をかけた。躊躇は、ないといったら嘘になるが、ほかに相談できる相手がいなかった。

「お久しぶり。元気でやってる?」

同年代の子とは違う落ち着いた口調で桐嶋は久しぶりの歩美からの電話に答えた。

「ええ、まあ、なんとか」

「あ、そういえば、怪我したんだって? そっちのほうはだいじょうぶだったの?」

「ええ、まあ、なんとか」

「ええまあ、ってさっきから同じセリフじゃない」

そういって桐嶋は笑ったが、記者としての嗅覚が働いたのか、急にまじめな口調に変わった。

「それで、きょうは何? どうかしたの?」

「あ、すみません。あの、久しぶりにお会いしたいなあ、なんて思って。お忙しいですか?」

「お忙しいか、って聞かれると、うん、って答えざるを得ないけど。まあ遠藤さんからのご指名を断ったら、うちの運動部の記者にどやされるわね」

「あの、ほかの記者さんには内緒で…」

「わかってるわ。それでいつがいいのかしら」

「きょうはダメ、ですか?」

「きょう?」

桐嶋は心底驚いた風を見せた。

そして、ただならぬ雰囲気を悟って、「いいわよ。ただし五時以降、ね」

気の置けない友人にいう感じでそう答えた。

「はい、構いません。それから、重ね重ね申し訳ないのですが…」

「うん? なに?」

「待ち合わせ場所、うちの近くでもいいですか? 〇〇駅前のファミレスなんですが」

「……ええ、いいわよ」 

それ以上桐嶋は詮索しなかった。

家の近くに呼び出すなにか特別な理由があるのだろう、そして、それは会えばわかるはず。

フットワークを重視する記者の特性から、桐嶋はそう判断した。




待ち合わせ場所のファミレスに桐嶋は約束の時間の十分前に着いた。

店内に入らず入り口で待っていてほしい、それが歩美のもうひとつのお願いだった。

おしゃべりに興じていた高校生や主婦たちは帰り、夕食を食べるには早すぎる。

そんな微妙な時間だったからか店内はすいていた。

五分前にタクシーが桐嶋の前に横付けされた。

ノースリーブの淡いピンクのワンピースを着た歩美が降りてきた。

歩美と目が合い、桐嶋は微笑んだが、気づかないのか、歩美は桐嶋の視線を無視してあたりを見渡している。

「遠藤さん」

久しく会わなかったから顔を忘れたのか、桐嶋はやさしく声をかけた。

歩美は声の主のほうに顔を向け、ようやく微笑んだ。

ただ、視線がわずかにずれている。

桐嶋は胸を突き上げられるようないやな予感を感じた。

「お久しぶり。相変わらずキュートな髪型ね」

そういわれて歩美はあわてて後ろの髪を手でなでつけた。

「桐嶋さんこそきょうもきれいでしょうね。ごめんなさい、よく目が見えなくて」

「わたしの顔、見えないの?」

「……はい。頭を強打して。その後遺症で」

「……と、とにかく中に入りましょう。さ、」

歩美の腕を取って桐嶋は慎重に歩美を誘導した。

「あのね、目のこと誰か知ってる?」

テーブルに座るなり、桐嶋が記者の口調で聞いた。

「誰かって?」

「マスコミ関係の人とか、陸連の人とか」

「いえ、誰も。監督もまだ知りません」

歩美は目がみえなくなるまでのいきさつを丁寧に話して聞かせた。

桐嶋は歩美の話をうなずきながら、黙って聞いていた。

最後まで聞き終えてもしばらくなにもいえなかった。

大きくため息を吐き、そして、

「とにかく、前向きに考えないとね。その有名な脳外科医、わたしのほうでも調べてあげる。先生がそうおっしゃってるなら、希望はたぶんかなりあると思うわよ。落ち込むなっていっても無理だと思うけど、元気ださなきゃね」

「だいじょうぶです。元気でやってます。最初は泣いたりしてたけど、いまはあんまり考えないっていうか、いくら悔いても始まらないし」

「そうね、まあいま遠藤さん見てて、そんな暗い部分ってあんまり見えないから、たぶん本当にしっかり現実と向き合ってちゃんと頭で消化してるんだ、って気がする」

「はは、桐嶋さんって本当、人を冷静に観察できるんですね、でも、あの、ありがとうございます」

「ただ、いつまでもこのこと、隠すのは難しいわね。もうすぐインハイの予選も始まるでしょ。みんなあなたのこと注目してるし」

「ええ、わかってます。そのうちばれちゃいますよね。わたしもどこまでできるかわからないけど、とにかくできるとこまでがんばってみようかなって」

「……そうね、でも、がんばるって?」

「わたし、予選に出るつもり」

「……え? ごめんなさい、いってる意味がよく」

「見えなくても、体はちゃんと覚えてますから。実はいま猛特訓中なんですよ。練習をはじめたときは想像以上に難しくて、本当に飛べるのかなって不安だったんですけど、もういまは普通に飛べるようになって。ただ、まだスピードがついていけないのが問題で、それをリズムを取っていかに」

「あ、ちょっと、いいかしら。あの、遠藤さん、あなた歩いたりするのだって大変なんでしょ。それなのに…」

桐嶋は歩美がなにをいっているのか、一生懸命理解しようとした。

「こんど見にきてくださいよ。お友達とかがサポートしてくれて練習してるんですけど、みんな驚いてるっていうか、まあ実は一番驚いているのはわたしだったりするんですが。人間やればできるんですね」

屈託なく笑う目の前の歩美を見て、桐嶋は若さのパワーを目の当たりにしたような気がした。



「でも…」

桐嶋は慎重に言葉を選んだ。

「確かにうまく飛べるようになったとして、あなたの監督さん、えーと田所さんだったっけ。試合に出させてくれるの?」

「それは…わかりません。実は後遺症が出る前に一度陸上部をやめさせようとしたことがあって。母が監督にやめさせるようにお願いしたみたいで。もちろん心配してくれてのことだとは思うんですが。いまのわたしの状態を見てなんていうか」

「そうね、監督の立場としては難しいわよね。もしそのことを隠して出場させて、万が一怪我でもしたら、なんて非常識な監督なんだって総攻撃を受けるだろうし」

「…そうですよね。監督にも迷惑かけちゃいますよね…」

「あと、マスコミがこのことを知ったら…。おもしろおかしく書きたてられるわね。間違いなくマスコミの格好の餌食ね。これまでとは違う好奇の目にさらされることになるわ。そういう目にあなたが絶えられるかどうか」

桐嶋のひとことひとことが歩美には重く感じた。

「あなたがわたしに話してくれたのも、そうした漠然とした不安があったからじゃないの? このまま本当に突っ走っていっていいのかって」

歩美は実の姉に対するように、コクっと素直にうなずいた。

「わたしね、以前あなたを見てて思ったの。あなたにはすばらしい才能があって、その才能の開花とあわせてあなたもどんどん成長していく。その過程では当然スランプに陥ったり、なにかトラブル、人間関係とか肉体的精神的とか、そういった問題に直面することも出てくる。そのときは自分自身としっかり折り合いをつけて対処しなくちゃいけないわけだけど、もしあなたに根源的な、心のずっと奥に眠っている問題と向き合わなければ、たぶんあなたはゆがんだ方向に自分をもっていって、最後にはつぶれてしまうんじゃないか、そんな危惧をもっていたの」

「あの、すみません、よくいってる意味が…」

「もしかすると、冷静に判断すると、いまはきっぱり陸上を休止して、治療に専念すべきときなのかも知れない。それが折り合いをつけるという意味で一番いい選択だとわたしは思うのよね」

歩美は唇を噛んでうつむいた。

「でも」

それまで厳しい口調でしゃべっていた桐嶋のトーンが変わった。

「あなたはその折り合いを拒否した。そして、自分で、自分の力で新しい自分を切り開こうとしている。ものすごいことよ。普通の人間にできることじゃない。わたしはね、応援する。ぜったい。やり遂げて。ね。そしていろいろいってくるだろう周りの人間やマスコミや、そしてあたなにこんな試練を用意した誰かに見せ付けてやって」

桐嶋はそういってテーブルの上で握り締めていた歩美の手にそっと自分の手をのせた。

「でも、むちゃしちゃだめよ。わかった? 無謀と冒険は違うんだから」

「はいっ、ありがとうございます。ほんとに。ありがとうございます。わたし、実は、ずっと、ずっと悩んでて…」

「もういいわ、わかってる」

流れ出る涙を奥歯を噛んでがまんしている歩美に、桐嶋はやさしくいった。




店を出て桐嶋はタクシーを止めた。

そして歩美をタクシーに乗せると、

「最後にこれだけはいっとくわ」

そういって歩美の腕をつかんだ。

「やるからには、あなたがこれからも『遠藤歩美』として生きていきたいなら一番になるのよ。一番でゴールして。中途半端に終わるくらいならはじめからやらないほうがいい。全力で走って一位でゴールしたら、そしたらわたしがすばらしい記事を書いてあげる」

歩美は思わず両手で顔をおおった。







 
翌日は倫子とミユキがふたり揃って迎えにきた。

「さて、しゅっぱるか」

心なしかふたりとも無口だった。

歩美は倫子の自転車の荷台に乗り、二台ならんでいつものように小学校に向かった。

小学校に着くと、でぶっちょをはじめいつものメンバー全員が集まっていた。

昨日桐嶋に会って歩美は腹をくくった。

くくったことで甘えがなくなった。

これまではどこかで不安があったり、飛べるだけですごいんだから、と自分で自分をかばっていたところがあった。

しかし、一番になるという目標がはっきりしたいま、歩美はなすべきことが見えてきたような気がしていた。

きょうから本格的にタイムを計り、より自己ベストに近づけようと考えていた。

みんなが固唾を飲んで見守る中、歩美は取り憑かれたように何本も何本も走りこんだ。

着実にタイムは上がってきた。しかし、自己ベストにはまだ程遠い。ライバルの森本のタイムにもまだ及ばない。

けっきょくいつもより一時間ほど延長して練習した。誰も歩美に時間を告げられなかったのだ。



練習を終えみんなで片付けているそのとき、歩美はあたりの空気が一瞬変わったような気がした。

そして全員の手が止まっていることに気づいた。歩美は首を少し傾け、あたりをじっとうかがった。目の前に誰か近づいてくる気配がして、歩美は身構えた。

「上体が伸びきってるじゃないか。あれほど俺が教え込んだっていうのに」

歩美はよく見えない田所の顔を緊張した表情で凝視した。

「俺に黙ってこんなとこで練習してたとはな」

田所の口調は落ち着いていた。歩美は握ったこぶしを太ももにおしつけながら、

「すみません」

と、やっとの思いでぼそっとあやまった。

「あれほど練習好きだったおまえがまったく顔を見せんからおかしいとは思っていたが。ひとことぐらい相談があってもよかっただろう」

後遺症が出るかもしれないことは、たぶんお母さんから帰化されていたはず。

だから無理にでもやめさせようとしたのだ、歩美は田所の苦しい心情をのぞきみた気がして、ただ涙を流すしかなかった。

「有吉と宇佐美にぜんぶ聞いた。ふたりに懇願されてな。とにかく黙っておまえの練習してるとこを見てほしいって。きょうは朝からずっと見学させてもらった」

歩美は思わずミユキと倫子を探した。

「それにしてもおまえの周りはバカばかりだ。誰ひとりおまえがやっていることに疑問をもたんのだから。まったく」

田所の声が心なしか震えている。

「あと一週間しかない。きょうからは俺が特訓する。あとで家に迎えに行くから準備しておけ」

「はい、でも、監督。あの、、もしこのことがばれたらいろいろ監督に迷惑がかかったり」

「ばか」

田所の一喝した声に歩美はびくっとした。

「いいか、二度と俺の前でそんなことを口にするな。おまえはただ走ることだけに集中してろ」

「はい。わかりました」

歩美は深々と頭を下げた。

「あの、ひとつだけ、いいでしょうか。実は母のことで」

「どうせお母さんには内緒なんだろ。お母さんが俺のところに来られたとき、おまえとお母さんの関係はなんとなく察しがついていた。心配はいらん。予選が終わったあとで俺からよく話してやる。なあに、わかってくれるさ。おまえがここまでひとりでがんばってきたんだ。わからん親なんていない」

ミユキがポンっと背中を叩いた。

それを合図に絡み合っていた何かがすっと解き放れていくのがわかった。








その日、歩美はいつもより早く起きた。

バックに荷物を詰め込むと、昨晩、必死にかきあげた手紙を手に、リビングにいった。

美佐江も律子もまだ寝ているようで、部屋の中は水を打ったように静まりかえっていた。

テーブルに手紙を置くと、音を立てないようにそっと外に出た。

手紙は小学生の文字のように拙かった。

「お母さんへ」という書き出してはじまっていた。




お母さんへ

 バカな娘でごめんなさい。でもここで走るのをやめたら、もうわたしには何も残らないような気がしたの。病院ではひどいこといっちゃったって反省してます。ただあのときいったことはぜんぶ本当です。今まではじゃまにならないように、お母さんの負担にならないように、いつもそればかり考えていました。だから陸上をはじめた時も、いい記録が出たときも、お母さんには言えませんでした。でも、いまは言います。どうかきょうのレースを見にきてください。ぜんぜん結果はダメかも知れないけどお母さんの前で恥ずかしくない走りを見せるつもりです。わがままな娘で本当にごめんなさい。
                        
                          歩美






田所の車に乗り込み、予選会場へ向かった。

車の中で田所はひとこともしゃべらなかった。

シートから伝わってくる振動が、歩美の緊張感を少しずつ高めていった。

関係者用の入り口から入り、通路に近いところへ車を止めた。

「ちょっと待ってろ」

そういって田所はひとりで車を降りて中に入った。

十分ほどしてもどってくると、

「選手のひとりが気分が悪くなったので別室を用意してくれと頼んできた。これでレース直前までほかの選手たちと顔を合わせなくてすむ」

「観客は? どれくらいでしたか?」

「いったい何を見に来たのか知らんが、とても予選会とは思えんほど大盛況だ」

「そうですか」

歩美は珍しく口を引き結び、緊張した表情を見せた。

歩美が出場する一○○m女子ハードル予選は午後一時三十分からの予定だった。

歩美は三組目でいきなり武高の森本と当たる。

昼前、大会の係員がやってきた。

○○新聞社の記者がインタビューさせてほしいということだった。

レース前なので遠慮してほしいと田所が丁重に断った。

時間が刻々と過ぎていき、歩美は部屋の中を右に左に動き回った。

「ま、落ち着けといっても無理だろうが、ここまできたらじたばたしても始まらん。レースが終わったらなにか旨いもんでも食いに行くか。おごってやるぞ」

「ホントですか。じゃあ、駅前のデパ地下でいつも大行列ができてるミルフィーユが食べたいなあ」

「ミルフィーユ? まあなんだっていいさ」

田所はおもむろに立ち上がり、歩美の脇に立った。そして小声でいった。

「いいか、まずスタートラインまでは、俺がなにかアドバイスをしてるふりをして誘導する。いいな。ビンディングの位置を教えるからあとは練習を思い出して思いっきり走れ。ゴールしたらその場でじっとしてろ。俺がタオルをもって迎えにいく。だいじょうぶだ。おまの脚に体をのっけていたら勝手にゴールまで連れてってくれるさ。いいか頭じゃなく、体で走るんだぞ」



係員がドアをノックして時間が来たことを知らせにきた。

「よし。お嬢さん出番だぞ」

「はい」

グランドに通じる暗い通路を田所に支えられて歩く。

グランドに出た瞬間、四方八方からどっと歓声が沸いた。

その歓声が誰にむけられたものか。

ただ歓声の中に鷺ノ宮女子高校の陸上部員たちの「遠藤ー、ファイファイ」そんな声援が混じっているのはわかった。

よく見えないが視界の上半分が青かった。

肌を刺す日差しも強い。

どうやらきょうはいい天気らしいことが歩美にもわかった。

ゆっくりコースに連れられていく。

耳元でさっきから田所がなにかいってるが、よく聞き取れない。


ただ、大歓声の中で歩美は不思議と落ち着いていた。

足が軽い。

まるで雲の上を歩いているような感覚。視界がゆらゆらと揺れている。

蜃気楼のように。


「遠藤、遠藤ー、聞いてるか」

「はい?」

「しっかりしろ、だいじょうぶか?」

「ええ、もちろんです」

「おまえは5コースだ。3コースに森本がいる。さっきからおまえのほうをちらちら見てるぞ。どうする挨拶でもしてやるか」

「挨拶? いいですね」

「よし、おれの背中をつかんでろ。おれがおじぎをしたらおまえも頭を下げろ」

田所がゆっくり歩き出す。そして、

「きょうはよろしく。がんばって」

そういって頭を少しさげた。

それにならって歩美も笑みを浮かべて頭を下げた。

「ははは、びっくりしてやがった。よし、誰が一番か見せつけてこい。じゃあしっかりな」

そういって田所が歩美のそばを離れようとしたとき、

「監督」

歩美が呼び止めた。

「なんだ?」

「あの、ありがとうございました」

歩美はぺこりとおじぎした。

「はあ? なにいってんだ。お礼をいわれるのはまだまだずっと先の話だ。とにかく、いまは十本のハードルの先のゴールを目指せ」


田所に促されて、歩美はゴールに体を向けた。

そして胸のあたりで手を組んだ。

大きく深呼吸し腰を下ろし、スターティングブロックに両足を固定する。

まっすぐ前を見る。

目には見えないがまぶたの裏にはっきりと地上から八十四pの高さに十本の白いハードルが映っている。

頭にリズムを刻む。

全身の筋肉がそのリズムに合わせて痙攣するように脈打つ。




大歓声が起こった。

歩美は観客席を見回してみる。



倫子やミユキはどこで見ているんだろう。

でぶっちょたちも来ているだろうか。

そして…。歩美はじっとうつむいた。





「位置について」

スターターの声もかきけされそうなほど会場は異様な雰囲気に満ちていた。

「よーい」

一、二、三、右脚でスターティングブロックを蹴り飛ばす。

左足のつま先がグランドに突き刺さる。

体が浮く。

歓声が後に渦を巻いて流れていく。

左脚が勝手に踏み切る。

同時に右脚がすっと伸びる。

左脚が開き、体が自然に前傾になり、右脚の太股が胸に吸い付く。

左脚を格納するとすぐに次の動作に向けて瞬時にすべての機能が切り替わる。

一連の動きを、歩美はまるで映画でも見ているように静かに観察していた。

二本、三本、四本、すべてなんの狂いもなく、同じ動作をくりかえす。

唯一違うのは前に進むごとにスピードがぐんぐん上がっていること。

隣りのレーンにはなんの気配も感じない。

森本も、もはや歩美の記憶から消えていた。

とつぜんかすかに海の匂いが鼻孔を刺激した。

あのときと同じ、事故を起こしたときと同じ匂い。

なつかしく、せつない匂い。

視界のずっと先にゆらゆらとなにかが揺れる。

ひとの影? 

白い日傘を差し、こっちを見て笑っている。

やさしく、包み込むような笑顔。




――ママ




そのとき右脚に堅くて冷たいものが当たった。

次の瞬間、目の前に赤いポリウレタンのグランドが迫っていた。

なにが起こったのか自分でもよくわからなかった。

歓声が悲鳴に変わった。

歩美はあわてて立ち上がった。

立ち上がったが、いま自分がどっちを向いているのかわからない。

頭が混乱する。

両手をやみくもに動かす。

その動作の異常さが、少しずつ、観客にも伝わっていく。

歓声は、やがて水が引いていくように消えていく。


ゴール近くで待機していた田所が急いで歩美のそばに駆け寄り、両肩を支えた。

「遠藤、もういい、よくがんばった。もういい。もう」

涙声で田所が歩美をゆさぶりながら呼びかける。

「ダメ、ダメ、走らなきゃ。走らないと、お願い、走らせて、じゃましないで、お願い」

半狂乱になって歩美は両肩を支えていた田所の腕をふりほどいた。

観客の視線はいつしかふたりに釘付けになっていた。

静まりかえった場内にふたりの声がこだまする。

「わかった。わかったから落ち着け」

「ゴールは? ゴールはどこ? ゴールは?」

「遠藤、遠藤、よく聞け。これがわかるか? これが七本目のバーだ。いいか」

田所は歩美の手をバーの上に乗せた。

歩美はゆっくりとバーの上で手をすべらす。

「わかります」

「よし、ゴールはあっちだ」

こんどは両肩に手をまわし、体をゴールの方向へ向けさせた。

「ここから、再スタートだ。いいか。俺はゴールで待ってる。全力で走ってこい。おまえが一番速い。おまえが一番なんだから。わかったか。みんなにおまえが一番速いことを教えてやれ、わかったか」

両肩に力を込めて田所は絶叫した。

「はい。行きます」

もう、歩美は取り乱してはいなかった。

落ち着いて腰を落とし、クラウティングスタートのポーズを取る。

自分で腰をあげ、三つ数えてスタートを切る。

計算され尽くした正確な歩幅を刻み、七本目、八本目、九本目、そして十本目を軽々と飛び超える。

そのままゴールまで全力で駆け抜ける。


ゴールの先で田所が両手を広げて待っている。

歩美はスピードを落とすことなく、田所にぶつかった。

田所は歩美を抱きしめたまま転がっていった。


「よくやった。すごいぞ。すごいぞ。遠藤。おまえってやつは。本当に大したやつだ」

歩美は上気した顔を涙に濡らし、田所の胸に顔をうずめた。

そのとき、観客席でひとりの女性が立ち上がり両手を叩いた。

激しく、手がちぎれんばかりに。

「遠藤、遠藤、お母さんが…」


いつまでもいつまでも彼女の拍手は鳴りやまなかった。



遠くにかすんで見える山間からもくもくと立ち上る真っ白な入道雲が、本格的な夏のはじまりを告げる、ある日の午後のことだった。



(了)



2015年11月02日

山田バンビ『ひだまりの夏』-10

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精密検査が終わったあとの槙田の顔は、しかし、きのうから歩美が何度も夢想していたそれとはかなり違っていた。

薄い眉を寄せ、槙田は神妙な面持ちで、美佐江と歩美の顔を交互に見つめた。

「いいことと、悪いことを申し上げます。まずいいことですが、これ以上症状が悪化することはまずないでしょう。まあ、リハビリすればもう少しは見えるようになるかも知れません。といっても日常生活にはけっこう支障をきたすとは思いますが。悪いことですが」

背もたれに体をあずけて、槙田は脚を組んだ。

「手術は非常に難しいということです。もちろん、可能性がゼロだといってるわけじゃありません。残念ながら当院ではできませんので、眼科医としては世界的な権威の先生が明星医科大学にいらっしゃいますから、紹介いたしましょう。ま、歩美さんは有名人ですから、先生も喜んで引き受けてくれると思います」

「いつ?」

歩美が何をいったのかよく聞き取れなかった槙田は促すように歩美に顔を近づけた。

「いつ手術するんですか?」

槙田はとまどいながらも極力平静を装って答えた。

「いつとは、今はまだわからないなあ。先生にもう一度診てもらって、それからどんな治療法がいいかを検討することになると」

「じゃ、いつ直るんですか? いつ見えるようになるんですか?」

「歩美、落ち着いて」

今にも槙田につかみかかろうとする歩美を、美佐江が必死に制した。

「いますぐじゃないとダメなんです。いますぐじゃないと。だって、だってだってだって、こんな目じゃ走れない。走れないよ。負けちゃう。先生、お願い、なんとかしてください。わたし走りたい、走りたいんです、お願いします、ね、お願いしますお願いしますお願しま」

「歩美、いいかげんにしなさい。どこまでわがままいえば気が済むの、あんたって子は」

仁王立ちになり、院内に響き渡るほどの大きな声で美佐江が歩美をしかりつけた。

美佐江のその言葉が、心のずっとずっと奥底にオブラートに包んで隠していた、生まれたままの感情の塊に突き刺さった。

「ママなんか、なにひとつわかってない。わたしのことなんか、なんにも。いつもじゃまもの扱いして。わたしは…わたしはママに見てもらいたかったのに、ママは一度も、ただの一度だってわたしが走ってるとこ見に来てくれなかった。わたしはいつもどんな思いで走ってたか、ママ知らないでしょ? ママの頭の中には仕事のことしかなくて、わたしがいるとこはこれっぽっちだってないんだから。わたしはママの娘でしょ? 違うの? どうしてもっとやさしくしてくれないの? どうしていつもじゃまものにするの? どうしてどうしてどうして?」

狼狽を隠しきれず目を泳がせている美佐江の前で、歩美は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をぬぐいもせずにリノリウムの床の上に子供みたいに座り込んでいつまでも泣きじゃくった。






それからというもの歩美は部屋から出てこなくなった。

美佐江もバツが悪いのとあまり刺激しないほうがいいと判断して干渉してこなかった。

食事は律子が部屋に運んできた。重苦しい空間にただ時間だけが静かに、ゆっくりと進んでいった。

なにもする気がせず、歩美は一日中ベッドに横になっていた。

体は鉛のように重く、頭の中も鉄の塊のように冷たく血の通わない脳には何の思考も浮かばなかった。



その日は朝から雨が窓を叩いていた。

槙田がいっていたように目の症状はそれ以上悪化することはなかった。

といってもよくなるでもなく、歩美は鬱々とした日々を過ごしていた。

着替えもせず、パジャマのままベッドにあおむけになって雲のように漂う天井の模様をぼんやり見ていた。

なるべく考えないようにしていたが、ついハードルの白いバーが脳裏に浮かぶ。スタートラインから最初のハードルまで十三・〇m。

左脚を蹴り左脚を踏み込む。

一本目を飛び、そこから次のハードルまでの八・五mをまるで測ったように正確な歩幅で刻んでいく。

二本、三本、四本…一本一本に加速装置がついているようにハードルを飛ぶごとにスピードが増す。

十本目のハードルを越え、ゴールまでの十・五mを一気に駆け抜ける──。

全身に電流が流されたように、歩美はベッドの上で立ち上がった。



できるかも、いや、絶対できる。

走れる。

自信がある。

だって、わたしは、遠藤歩美。世界ジュニアで頂点に立てる素質があるんだから。

神様から授かったこの両脚さえあれば──。



歩美の両手は汗でじっとりと濡れた。

まずどうすべきか、歩美はベッドに立ったまま、さっきまで停止していた思考を必死にめぐらせた。

計画はあっという間に出来上がった。

ベッドを飛び降り、よく見えないもどかしさにいらつきながら、ここ数日さわってもいなかった携帯電話を探した。

切っていた電源を入れて息を吹き込むと、右目に液晶画面を押し付けて倫子の番号を検索した。

倫子はなかなか電話に出ず、十回コールしたところで留守番電話になった。

すかさずリダイアルするとこんどは九回目のコールで電話に出た。

「あーあいあい、もしもし」

「倫子? 歩美だけど。ごめん、寝てた?」

「えー、歩美? 歩美なのー?」

寝ぼけていた倫子は歩美の声を聞いたとたん目が覚めたといわんばかりに素っ頓狂な声をあげた。

「どうしたの、こんな時間に。でもちょー久しぶりー、だよね」

目が見えないこともあるが、時間になんの興味もなかったから、最近は時間を気にすることがなかった。

「あ、ごめーん、いまさ、何時だっけ?」

「……え? 時間は、えーと八時十分だけど…」

「そっかー、そんなに早かったんだ。あのさー、ちょっと会わない? 久しぶりに旧交をあたためようよ」

「きゅうこう? なんかよくわからないけど、いいよ。久しぶりだし。でも部活の練習が…あ、そうか、きょうは雨だから休みなんだ。だからヒマなんだー。ヒマつぶしに電話してきたと、図星?」

「そんなとこ」

「やっぱねー」

「ごめんごめん、うそだよ。それでさ、雨の中悪いんだけどウチ来てくれない?」

「それは別にいいけど」

「よし決まり。じゃあとでね」

歩美は子供みたいにはしゃいでいた。




走れる、また。

絶対走ってやる。

誰がなんといおうと。

誰にも負けない。

自分にも、森本恵にも、田所にも、ママにも、そして誰が仕組んだのか知らないけどこんな試練にだって。



二時間ほどしてチャイムが鳴った。

歩美はドアにぴたりとはりつき、美佐江が玄関で倫子と話している声に耳をすませた。

「歩美、倫子さんがいらしたけど…」

倫子を呼びつけた真意を推し量ろうとしてする半音上がった声で美佐江が部屋の外からいった。

はやる気持ちを抑え、勢いよくドアを開けた。

「おー、久しぶりー」

ふたりほぼ同時にそういった。

そういった途端、歩美の目から涙がこぼれた。

陸上部に入るまでは毎日のように遊び回り、どんな些細な悩み事も包み隠さず相談していた。

それが陸上の練習が忙しくなるにつれてふたりで話す機会はめっきり減っていた。

久しぶりに気の置けない友に会えてうれしかったのと、目の前にいる大好きな友人の顔がぼやけてよく見えないことが悲しかった。

泣いてるところを悟られないように、あわてて歩美は、

「さ、中入って」

そういって倫子を部屋に招きいれた。

ふたり並んでベッドに座り、近くの小学校で怪我をする前までの話をときには笑い転げ、ときには真剣なまなざしで語り合った。

倫子は結局反対していた父親の説得に成功し、いまは四年生大学の受験の準備で忙しい毎日を送っている。

「夏休みに入ったらさ、学校に行ってる時間よりももっと長い時間、塾にいるんだよ、信じられる? 朝から晩まで勉強勉強で、もうやめたくなったよ、ほんと。こんなことなら推薦で短大に入っておけばよかった」


倫子は倫子で将来に向けて充実した高校三年生をやっているんだ。

わたしだって、一生に一回しかないい「いま」を一生懸命がんばらなきゃ。


「歩美は? 近いうちに大きな大会があるんでしょ? それに向けて猛練習の日々、って感じ?」

「そうなんだよねー。っていうかそうだったんだよね」

「え? なんで過去形? な、なんか、あった…?」

もし目が見えていたら倫子の不安のこもった視線に耐え切れず泣き出していたかもしれない。

このときばかりは目が見えなくてよかったと、歩美は思った。

「ちょっとバカやっちゃってさ、怪我しちゃったんだよね」

「怪我? どこを?」

倫子が歩美の頭からつま先まで眺め回すしぐさをしたのが、歩美にもなんとなくわかった。

「近くの小学校でふざけて遊んでたら、ここ、打っちゃって」

そういって歩美は頭を指差した。

倫子は、頭と聞いて一瞬絶句した。

「頭っていったって、別に命に別状はないの。ちょっと物覚えが悪くなったぐらいかなあ。あ、それは前からか、あははは」

歩美のジョークにも倫子は反応しなかった。

目の前で無理に饒舌にしゃべっている友達の口から出るであろう告白を、身じろぎひとつせずただじっと待っていた。

「頭はだいじょうぶなんだけど、目が、ちょっとね」

「目が…」

「うん、見えにくくなったの」

「見えにくいって…どれくらい?」

「そう、たとえば」

歩美は倫子の顔に手を近づけ、たとたどしい仕草で頬をそっとさわった。

「倫子の顔が見えないくらい」

歩美がさわっている倫子の頬の筋肉が一瞬ピクッと痙攣した。

「あ、結構深刻になっちゃった? そりゃそうだよね。突然呼び出されて目が見えないんだ、なんていわれらたらびっくりするよね。わたしも最初はショックだったんだけど、なんていうか、もう慣れちゃった。見えないっていったってうっすらとは見えてるし」

「……」

「…ほんと。久しぶりに会ったのに顔がよく見えなくて残念なんだけど」

「あの、病院には、行ってるんでしょ? お医者さんは、あの、なんて?」

「有名な眼科医がいて、その先生だったら、手術して治るんだって」

 「治る」のではなく、「治る可能性がゼロではない」という気休めのレベルの話だということはあえてしなかった。

話したところで倫子によけいな心配をかけるだけだと思ったのだ。

「…そっか。手術か。ともかく治るならよかったね。でも、手術するまではけっこう大変かも」

倫子がどこか半信半疑なのは微妙なアクセントからすぐに歩美にもわかった。

しかし、ここは嘘を突き通すしかなかった。

「そうなんだよね。まあ一番ショックなのはハードルの練習ができないことかなあ。あのさ、やっぱり練習しないとタイムって伸びないんだよ。インハイも近いし、困ったなあって思って」

「練習…って。その、大きな大会には、あの、手術は間に合うの?」

「うーん、それはたぶん…」

歩美は少し首を傾げて、

「絶望的に無理だろうね」

そういって微笑んだ。

倫子の表情は伺い知れなかったが、目の前の友人がいったい正気なのかどうか探っている、そんなふうに歩美には思えた。

「そこで倫子の出番。親友としてさ、ちょっとお願いしたいことがあるんだ」

「お願い?」

「そう。ぜったい倫子には迷惑かけないからさ。ね。ほんと、一生のお願い」

そういって歩美は倫子に顔を近づけて自分の計画を倫子に話して聞かせた。

歩美の話を黙って聞いていた倫子は、しばらくの間焦点の合わない目を右に左に動かして反論の材料を探していた。

そして、

「無理だよ、そんなの」

そう、哀れむような表情でいった。

「そもそもカニカンがぜったい承知するわけないよ、そんなこと」

「カニカンはだいじょうぶ。まあ最初は猛反対するだろうけど、最後はOKしてくれるって。そっちのほうはわたしがちゃんとやるから」

「それにお母さんだって…もしそんなことがバレたら」

「お母さんは…」

歩美は一瞬言いよどんだ。

「あの人は、わたしには干渉してこないから。何かいわれたって関係ないし」

複雑な母子関係を垣間見た気がして、倫子はそれ以上詮索しなかった。

「まあそこまでいうなら…。わたしは別に構わないけど…でも本当にだいじょうぶ?」

「うん。あのね、いまやらなきゃ一生後悔すると思うんだ。できなきゃできないで、そんときはあきらめるよ。でも何もしないで終わることだけはぜったいいやなの。ね、わかって。わたしね、自信あるんだ。だいじょうぶ、ぜったいやってやるって」






倫子が帰ってすぐ携帯電話が鳴った。

液晶画面が見えにくいので直接通話ボタンを押して耳に当てた。

「もしもし、遠藤か?」

田所だった。

あまりのタイミングに歩美は少し狼狽した。

「あ、はい、遠藤です。あの、すみませんでした。練習に出られなくて」

「ああ、それはいいんだが、なんかあったか? 体の具合が悪いとか」

「いえ、そればぜんぜんないです」

思わず携帯を持つ手に力が入った。

「そうか、それならいいんだが、てっきりドクターストップがかかったのかとちょっと気になってな」

「ほんと、すみません。ちょっと家庭の事情で…」

「……お母さん、か」

たぶん田所が一番聞きたかったことがこれだったはずだ。

「それはもう解決済みです。こんどはおばあちゃんの具合が悪くて、それでいろいろと。あ、でもちゃんと近所で自主トレはやってますから。ご心配なく」

歩美は努めて明るくいった。

田所にはぜったい悟られてはいけない、歩美は咄嗟に考えた。

「そうだ、いただいた電話ですみませんが、ちょっと母の実家にいかなければいけなくて、あの、部活に出るのはもうちょっとあとになるんですが」

「ああ、それはかまわん。適度に体を休めて、ただ一日に少しでもいいからジョギングはかかすな。いいな。一度さぼりぐせを身につけると、覚えてしまうからな、体っつーのは」

「ええ。それは、だいじょうぶです」

「そうそう、あとな、まあこれはおまえは一切気にすることはないんだが、マスコミの連中がかぎつけたらしくてな、この前の事故のこと」

歩美は緊張した。

「おれんとこに電話があって、怪我の程度はどうだ、と聞いてきたから、かすり傷程度でぜんぜん心配いりません、と答えといた」

「ほんとに、すみません。わたしの不注意でみなさんにご迷惑かけてしまって」

「まったくだ、ドジしやがって」

田所は真剣に怒っている言い方だった。

「以後、気をつけます」

「よし、まあ起こってしまったもんはしょうがいない。とにかく早く復帰してライバルどもを蹴散らしてくれ」

電話を切ったあと、歩美はベッドに仰向けになり足を高く上げて、自転車をこぐ要領でぐるぐると回した。

倫子から電話が来たのはそれから三日後だった。

とりあえず”準備“はできたという。

その日の夜、歩美は美佐江が仕事から帰ってくるのを待ち構えた。





夜九時過ぎ。

美佐江が帰宅しリビングで遅い夕食をはじめたのを見計らって部屋を出た。

歩美がリビングに顔を出すと、美佐江は驚いて箸を止めた。母と娘が対面するのは病院の一件以来だった。

歩美が手を突き出し壁伝いにテーブルに近づこうとすると、ソファに座ってテレビを見ていた律子があわてて歩美の手を取り、いすに座らせた。

美佐江は箸を止めたまま身構えてた。こんどはいったい何を言い出すのか、そんな緊張感が歩美にも伝わってきた。
「あのね、この前倫子が来たでしょ。あのとき、英語のヒヤリングの勉強をやらないか、って誘われたの」

「ヒヤリング?」

至極まっとうなことをいう歩美に少し拍子抜けしたのか、美佐江はいつもより少し高い声でそういった。

「倫子っていま英語の教室にかよってて、そこにアメリカ人の先生がいるからヒヤリングの勉強しようって。事情を説明したら先方も歓迎してくれてるみたいで」

「そう、それはいいかもね。お母さんも大賛成よ。語学力を身につけたらいざというとき…」

つい口から出た言葉を美佐江はあわてて飲み込んだ。

「じゃあ、明日から倫子が向かえに来てくれるから」

「あら、お母さん送っていくわよ、ノリちゃんにも悪いし」

「ううん、ほんとだいじょうぶだから。逆に倫子が気を使うし」

「そう、わかった。じゃがんばってね」

まるで腫れ物に触るような美佐江の対応に、歩美はまた感情が吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、愛想笑いを作ったまま自分の部屋に帰った。

その日、歩美は珍しく興奮してよく眠れなかった。

十時の約束だったが六時には起きて準備をはじめた。

トレーニングTシャツとランニングパンツを最初に着て、その上から水玉のワンピースを着た。

パッと見はこれから勉強に行くといういでたちだった。



時間通り倫子が向かえにきて、彼女の運転する自転車の荷台に横すわりに乗った。

バス停に向かう交差点のコンビニを右に曲がりゆるやかな丘を登る。

小学校の校門に着いたときには、倫子の息はすっかりあがっていた。


「ごめんね。倫子。体力使わせちゃって」

「はあはあ、ううん、ぜんぜん、はあはあ、少しは、痩せられる、かもね、はあはあはあ」

「うん、そうだね、わたしも陰ながら応援するよ」

「よくいうよ」

ふたりは笑った。

倫子に腕を引かれて校庭に入る。いつものように校門はすぐに開いた。

「あ、来てる来てる」

どこかうれしそうに倫子がいった。

「そりゃ来るって。あいつらにも責任取ってもらわないと」

ふたりの姿を見とめて、校庭の端ではしゃいでいた小学生たちが集まってきた。

「この前はごめんなさい、胸のないお姉さん。目、だいじょうぶ?」

でぶっちょの声だ。

「まだ胸のこといってる。こんどいったら叩くっていったよね」

「だってほんとのことじゃん」

「稲盛ってほんとひどいこというよね。だから詩織にも嫌われるだよ」

でぶっちょ達にいじめられていた女の子。

「なんだよ、それ。別にいいもんねー、あんなやつ」

「へー、いいんだー、じゃあ詩織にいっちゃおうっと。稲盛のでぶがあんたのこと嫌いだっていいふらしてたって」

「なんでおまえがそんなこというんだよ、ブスのくせに」

「なによ、でぶのくせに」

そんな他愛もない会話を聞いていて、歩美は緊張していた筋肉がゆるんでいくのを感じた。

怪我をしたのはあくまでも歩美の自業自得なのだが、そのきっかけを作った子供たちはもう少し神妙な顔をしてしかるべきなのだが、ささいなことでも落ち込んでしまいがちな今の歩美にとっては子供たちの屈託ない態度が逆にうれしかった。



歩美の要請を受けて、歩美と一緒にいた小学生たちに倫子が連絡をとり、きょう集まってもらったのだ。

「いわれた通り用具室の鍵は預かってきたよ」

「よくあんたたちみたいな悪がきに貸してくれたよね。あんたたちの先生ってもしかしてけっこういいかげん?」

「なにいってんの、ぼくたちほら優等生だから。夏休み中、鷺ノ宮女子の遠藤さんがハードルのコーチをしてくれるっていったらすぐOKしてくれたよ。胸のないお姉さんって有名人だったんだね」

「そうよ、いまのうちにサインもらっときな」

冗談のつもりだったが、見えない歩美には悪かったかも、そう思って倫子はちらっと歩美を見たが、当の本人はにこにこ笑っていて気づいていないようだった。

「みんなごめんね。ほんとに。しばらくの間、お姉さんに協力してね。倫子も」

「いいってことよ、な。そのかわりオリンピックに出るときはぼくたち招待してね」

「わかった。さて、じゃ始めようかな。まず、ハードルを置くところに線を引いてもらうわね。えっとー、スタートラインは…」

「あそこがいいんじゃない?」

でぶっちょが歩美の袖を引いて校舎前の直線コースの端に連れて行った。

「この線からまず十三mのところに最初の線を引いてほしいんだけど、倫子、メジャーもってきてくれた?」

「うん。みんな手伝って」

十三mの位置に白線を引き、それ以降八・五m間隔で九本、合計十本の白線が引かれた。

そして、最後の線から十・五mのところにゴール線が引かれた。

「ありがと。きょうはハードルなしで距離の感覚を覚える練習をするから」

自分にいいきかせるようにそういって用意をはじめた。

子供たち五人、倫子を入れて六人。

本当はハードルの数だけ人数が欲しいところだが、ぜいたくはいってられなかった。

とにかくできることから手をつけたかった。

とりあえず六人に手前の白線から順番に並んでもらい、歩美が彼らの前を通過するときに「はいっ」と声をあげてもらうことにした。

これにより、スタートから一本目のハードルまでの距離、そして二本目以降のハードルの位置を覚えようというのだ。




練習がはじまった。

もとより歩美にとってはそれは「練習」というより「修行」に近いものだった。

想像していたよりはるかに難しかった。

それでも一時間もするとなんとなく距離感をつかめてきた気がした。

そこで今度はハードルの位置に引かれた白線を通過するとき、軽くまたぐしぐさをして白線の横に立っている倫子や子供たちに、歩美の体が覚えた位置が合っているかどうか確認してもらうことにした。

難しいのは「はいっ」の声の前にジャンプしなれければ白線をきれいにまたげないことだ。



一本目。

クラウチングスタートし、最初の白線の位置で「はいっ」の掛け声と同時にジャンプしてしまった。

二本目は意識しすぎて掛け声よりかなり前でジャンプしてしまった。

何度やっても合わないことにさすがにみんな本当にハードルが飛べるのかどうか疑心暗鬼になってきた。

しかし歩美だけは、なんの疑いももっていなかった。

まだ時間はある。

少しずつ体に覚えさせていければいい、そう思っていた。




練習二日目。

きのうと同じメンバーが集まり、これまたきのうとほぼ同じメニューをこなした。

しかし相変わらずジャンプのタイミングが合わなかった。



三日目になるとメンバーの数が減っていた。

「タカシが家族と旅行にいっちゃって。ごめん」

「いいよ。ほんとに。みんなももし予定があったら無理しなくていいから。ほんとだよ。わたしはひとりでも練習できるし」


しかし、五日目にはついに倫子とでぶっちょの三人になった。

みんないろいろ予定が入ったのもあるが、歩美の練習を目の当たりにして「どんなにがんばったところで、できっこない」というあきらめが芽生えてきて、歩美の努力がなんだか不毛なことのように思えて見ているのがつらくなってきた、というのも来なくなった理由のひとつだった。

そういうみんなの思いとは関係なく、歩美は毎日毎日黙々と練習に励んだ。



六日目には実際にハードルを一本置いて飛ぶ練習を始めた。

倫子に手伝ってもらい踏み切り位置を確認する。

そして何度か軽く飛んでみたのだが、何度も右足がバーに触れハードルを倒してしまった。

これにはさすがに歩美もショックだった。

ハードルの高さは体が覚えているという自信があったのだ。

ハードルは越えればいいというわけにはいかない。

いかにバーの上をぎりぎりにしかも速く飛ぶか、それがもっとも大事なことなのだ。

歩美はこれまで抜群のセンスと高い潜在能力と特訓のおかげでどの選手よりもうまく飛んできた。

それが目が見えずらいという理由だけで飛べなくなることが許せなかった。

逆にいえばそれだけ自分の才能を信じていたのだ。



バーになんどもつまづき、倒れ、そのうち手のひらや膝が擦り傷だらけになった。

見かねた倫子が、

「ねえ、一日ぐらい休んだほうがいいよ。疲れてるんだよ」

そう助言した。

それでも歩美は練習をやめない。

淡々とハードルを飛び続ける。成功率は確実にアップしてきたが、歩美の肉体の消耗も激しかった。

踏み切り位置を間違え、おなかからバーにつっこんだ。

みぞおちあたりを痛打し、のたうちまわった。がまんできずでぶっちょが、

「ねえ、もうやめて。死んじゃうよ」

そう目に涙を浮かべて嘆願した。

「いや。やめない。やるの! はやくバーを起こして」

歩美の表情は獲物を狙う獣のそれだった。

目は血走り、腕や脚からは血がにじんでいるのもかまわず、とにかく目の前のバーを越えることだけに、全神経を集中しているようだった。

もはやふたりとも黙って見守るしかなかった。


ようやく成功率が九十%を越えた。歩美も納得したのか、

「あしたは、休もうかな」

と肩で息をしながらそういった。

倫子とでぶっちょはお互いに顔を見合わせてようやく解放されると安堵の表情を浮かべた。

「ごめんね、ふたりとも。つきあってくれてほんと感謝してる。ありがとう」

「なに気持ち悪いこといってんの。つきあうったって午前中だけだし、ねえ」

「そうそう、おれのお母ちゃんなんか、どうせ家にいたって昼過ぎまで寝てんだからちょうどいいって。でも本当は家にいなくてせいせいしてるんだろうけど」

いつのまにか倫子とでぶっちょの間には妙な“連帯意識”が生まれていた。




家に帰るとワンピースで隠してはいるがすねから血が出ているのが見えたり、やけにやつれて見えたりして、美佐江に、

「歩美、あの、英語の教室に行ってるのよね。別に疑ってるわけじゃないんだけど、なんか、そんなふうに見えないっていうか」

と思いっきり不審がられたりもしたが、歩美は明るい顔をして部屋に入っていった。




翌日はここ最近使いづめだった体を癒そうと、CDを聞きながらベッドに寝ていた。

目を閉じ指でリズムを取っていたとき、ふっとハードルを飛んでいるシーンが頭に浮かんだ。

一本、一本とハードルを越えるタイミングがちょうど今聞いてる音楽のリズムとぴたりシンクロした。

歩美は目を見開き飛び起きた。

「リズムだ」

歩美は律子を呼び、小さい頃ピアノを習っていたときに使っていたメトロノームを探してくれと頼んだ。

「ピアノもいいかもねえ。ほら、なんていったっけ、アメリカの黒人で、目が見えなくて、ステなんとか」

「スティービー・ワンダー」

「そうそう、あの人は」

「もういいから、ありがと、おばあちゃん」

そういって無碍に律子を追い出した。

ベッドにうつぶせになり、目を閉じ、まぶたの裏に、これまでさんざん走りこんだときのシーンを何度も巻き戻し、それにあわせて電子式のメトロノームを微調整した。

そしてようやく自分の走りのリズムを探し当てた。

「これだ。たぶん、このリズムだ」

歩美は何度も何度も、一日中設定したメトロノームをつけっぱなしにして、リズムを頭にそして体に刻み込んだ。




次の日の朝、倫子から電話があった。

きょうは急用が入ったからつきあえないという。

歩美は、実はわたしも疲れてるからきょうも休もうかと思っていたところ、といってごまかした。

歩美はメトロノームをカバンに入れ、その日はひとりで自宅を出た。

マンションのエントランスでタクシーを呼ぶつもりだった。

エレベーターで一階に降りたところで、乗り合わせた同じ階の年配の主婦が、足元が怪しい歩美の腕を引いてくれた。

大丈夫です、と断ったが、主婦はかまわずエントランスまで手を引いてくれた。

うれしい反面、面映くもあり、また少し悲しかった。



タクシーを呼ぼうと携帯電話を探していると、目の前に自転車が止まった。

「本日はミユキタクシーをご利用いただきましてありがとうございまーす」

思いもかけない突然の友人の登場に歩美は咄嗟になんの返答もできなかった。

「どうせきょうも行くんだろ、小学校に」

「……ミユキ」

「倫子コーチからいろいろ聞いててさ。きょうは休むっていってたけどたぶんひとりで行くだろうから様子を見てきてくれって。まあ、なにかと大変だったな」

「うん。もうだいじょうぶ」

「だいじょうぶっていってるそばから泣くなよなあ」

「ごめん」

「ほんじゃ、しゅっぱるか」


歩美はミユキの自転車の荷台に座った。

荷台には小さなクッションがくくりつけてあった。

歩美はミユキの細い腰に手をそっと回し、また涙をぬぐった。




小学校につくと、でぶっちょがきょうもひとりで待っていた。

「いつもいつもごくろうさんだな。キミ、名前は?」

「お姉さんは誰? 胸の小さなお姉さんの友達?」

「胸? アユってば、どんな教育してんだ? わたしはミユキ様だ」

「ふーん」

「ふーんって、だいたいキミはちょっと太りすぎとちがうか?」

「いいんだよ貫禄があって」

「っていうより、その年でメタボるぞ」

「め、めた…?」

「さて、はじめるか。なにをどうするのかな、メタボ君」

「まずね、あそこの用具室からハードル出して、あの白線にそって並べるの」

「よし、力仕事はまかした。メタボ解消のためにも働きたまえ」

倫子といいミユキといい、歩美はつくづくいい友達をもったと、心の中で感謝した。



ウォーミングアップが終わったところで、心配そうな声でミユキが聞いてきた。

「倫子から聞いてたけど、本当に飛べるのか。歩くのもままならんつーのに」

「まあね、見てて」

そういっていつものように歩美はでぶっちょにスタートラインまで誘導してもらい、軽く飛んでみせた。

「ふぉーおおお、これはスゴイ。よくここまで練習したもんだ」

「自転車と同じで、体が覚えてるっていうか。でもただ飛べるだけじゃ意味ないのよね。速く飛べなくちゃ。そんでね、聞いて聞いて。必殺技をきのう編み出したの」

「必殺技? ウエスタンラリアートでハードルを倒していくとか?」

「? まあ見てて」

歩美はポケットからメトロノームを取り出し、音量を最大にした。

そして目を閉じリズムに合わせてその場で走るしぐさをした。

そして、ゆっくりスタートラインにひざをつくとゆっくり顔をあげ、見えないゴールを見据えた。

右脚を蹴りだし、左脚を地面に突き刺す。

メトロノームのリズムが脚の筋肉を制御し自然に前へ前へすばやく動かす。

滑走路を走るジェット機のように決められた位置で自然に体が浮き、右脚をまっすぐ突き出し、体を右脚と同じように水平に傾け、左脚を翼のように地面に垂直に広げ、バーを越えるとすぐさま体の内部に格納する。

この一連の動きを一定のリズムに合わせてリバースで見るように繰りかえす。






2015年10月21日

山田バンビ『ひだまりの夏』-09

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土曜日、歩美はひとり鷺ノ宮女子高校の制服を着て電車に乗った。

青空がひろがりよく晴れた日で、家族連れで車内は混んでいた。

ただ、歩美の気持ちは薄暗い雲に覆われていた。

自分が陸上部からはずされたことだけじゃなく、昨晩から目のかすみがなかなか取れないことが、歩美を沈鬱な思いにさせていた。

いくらこすっても目のかすみは取れなかった。


かわいいTシャツを着た、歩美と同い年くらいの女子高生が目の前のつり革につかまり楽しそうにおしゃべりしている。

父親のひざに乗った小さな女の子が歩美をみて手を振った。

歩美はたまらず両手を握り締め下を向いた。


競技場には大勢の選手や学校関係者がひしめき、さながら運動会のようににぎやかだった。

観客席には学校ごとに固まって双眼鏡を手に観戦したり、着替えたり、ストレッチをしたりしていた。

紺のジャージにオレンジのワッペンが腕に縫い付けられた鷺ノ宮女子高校陸上部員たちは、トラックの直線コース脇の観客席に陣取っていた。

カニカンの姿はなく、あたりを見回すと、トラックに出て他校の監督と談笑しているのが見えた。


トラックの向こう正面ではハードルが並べられ、大学生と高校生が入り混じって歩幅を確認したり、ハードルを軽く飛んだりしながら、タイム測定が始まるのを待っていた。

歩美は体の芯が熱くなり、いてもたってもいられなくなった。

急いで観客席下のテントに設営された運営本部に向かった。

「すみません、ハードル競技で武岡高校の森本選手ってきょう走ると思うんですが、トライアルは何時ごろでしょうか」

大学生と思しきスタッフの女性に聞いた。

「武岡高校の、森本さん? えーと、ちょっと待ってね。ああ、あったわ。間もなく六十メートルハードルが始まるから、そのあとの、そうねあと十分くらいじゃないかしら」

「そうですか、ありがとうございます」

「あの、ちょっと待ってくれない? あなた」

受付の女性が顔をのぞきこんできた。

「遠藤さん、だよね? 鷺ノ宮女子の。きょうは…走らないの? どこか体調が悪いとか」

「ええ、まだ仕上がり途中なので、いまはあまり無理しないほうがいいと、監督からもいわれていまして。あの、ありがとうございました。失礼します」

歩美は急に息苦しくなり、あわててその場を離れた。

そして田所に見つからないように、選手たちに混じって移動した。

ハードルコース脇で走り高跳びの競技が行われていて、歩美はその人盛りの中にまぎれてそっとハードル選手たちの様子を伺った。


森本の顔はすぐわかった。

おかっぱで鼻先が少し上を向いている。

まだ幼さが残っている印象だが、体つきはその顔とは不釣合いなほど、がっしりしていた。

背丈は歩美よりもありそうだった。

さかんに周りの選手たちから声をかけられ、そのたびに白い歯を見せて笑った。

歩美はその光景を奥歯をかみしめながら見ていた。

六十メートル競走が終わり、ハードルの数が増やされた。歩美、そして森本の専門分野である百十メートルハードルのタイム測定が始まった。

膜ががかかった視界ではよく見えなかったので、歩美はゴールの近くまで移動した。

二組の競技が終わり、三組目に森本が出てきた。

歩美は息を飲む。

ピストルの渇いた音がした。

森本はあっという間に一本目のハードルにとりつく。



─速い。


空気を掻く手の振りも素早く、体の軸がまったくぶれない。

早くもトップスピードに入り、そのままぐんぐん加速する。

二位の選手に三秒以上の差をつけて歩美の脇を走りすぎていった。

百メートル走は歩美とほぼ同じくらいのタイムか。

股下が長い分、歩美よりも有利に思えた。

ゴールしたあと、軽く足踏みをしていたが、息はもう上がっていなかった。


スタミナ、スピード、体の切れ。いずれをとっても歩美には脅威に思えた。

電光掲示板にタイムが出た。

十三秒八八。

周りの選手たちから拍手がわいた。

同時に歩美は下唇をきゅっと噛んだ。


ふと気がつくと十メートルほど先に田所がいた。

その視線の先には森本がいた。

歩美はそっと田所の背後から近づいた。

「監督」

振り向いた田所の顔が見る見る苦渋に満ちていく。

「遠藤。おまえ…何してしてるんだ」

「監督こそ、どうして黙っていたんですか、きょうの合同練習会のこと」

「いや、黙っていたわけじゃなくて、ほら、おまえもあんなことになったし、ウチは参加を見合わせようと…」

「速かったですねえ、彼女。着地のとり方がすごくうまいのように見えたんですが、監督はどう思います?」

森本を目で追いながら話す歩美の横顔を、田所はじっと見据えていた。

「おまえ、体は大丈夫か? え? どこか、頭が痛むとか、めまいがするとか?」

田所の言い回しに棘がないのが逆におかしくて、歩美は視線を森本から田所に移した。

「え? 体ですか? ぜんぜん元気ですよ。だからいったじゃないですか、取り越し苦労だって。お医者さんがちょっと脅かすようなこといったから、みんな神経質になっただけで。ほんとに」

昨夜から続いている目のかすみについては黙っていた。

「それより、わたしちょっと挨拶したいんですが。監督、つきあってくださいよ」

「あいさつ? 誰にだ」

「誰って、彼女ですよ。ほら、一応ライバルっていわれてるわけだし、顔あわせしといたほうがお互い励みになったり、っていうかあ、監督もよくいってますよね、陸上は個人競技じゃないって。いっしょに走る相手によって記録はぜんぜん違ってくるって。ね、森本さんもたぶんわたしを意識してると思うんですけど、もっと闘争心をもってもらったほうがわたしもがんばれるんじゃないかなあって」

「意識してるなんてもんじゃない。日本でハードルやってる人間でおまえを意識してないやつなんてひとりもいやしないさ。おまえは格好の目印なんだ。とりあえず遠藤歩美を打ち負かす、それがおまえ以外の選手がもってる課題なんだ。まあ、そうそう簡単に遠藤歩美を負かすことなんてできんだろうが」

目元にしわをつくりながら、田所が自信たっぷりにいった。そんな田所のうれしそうな顔を久しぶりに見た気がして、歩美の気持ちは浮き立った。

「でも、遠藤、おまえ、本当に大丈夫なのか。安静にしろっていわれてるところへ激しい運動なんかしたら」

「もうしつこいですよ、自分の体なんですから、大丈夫だっていったら大丈夫なんですって。それより監督、わたしいっこくも早く練習に復帰したいんですが。きょう森本さん見てて、わたしも着地をもう少し改良したほうがいいと思うんですよ。着地しだいでもっと速く左脚を引き寄せられるんじゃないかって」

しきりに唇をなめて逡巡している田所を見て、カニカンは翻意するだろう、歩美はそう確信した。

「ね、監督、とりあえずあいさつ。ね。早くいきましょうよ」

歩美は田所に腕を回して引っ張った。

しかし田所の足はぴくりとも動かなかった。

歩美の想像以上に鬱屈した気持ちが重い塊となって田所を地面に押し付けているようだった。

「ひとつだけ、条件がある」

田所の重い声に、歩美は思わず田所の腕に回していた腕を離した。

「……」

「まず、医者の診断書をもってこい。それがなきゃ練習はさせん。それと、もし少しでもおまえの様子がおかしいと判断したら、即刻中止だ。わかったか?」

医者の診断書…そんなもの、あの槙田が絶対出すわけない。それでも歩美は笑顔を作り、

「わかりました。さ、いきましょうよ」

そういってその場をごまかした。

オレンジの上下のジャージを着てタオルで汗を拭いていた森本は、自分の監督に連れられて制服姿の女子高生が近づいてくるのを怪訝そうに見ていた。

「森本、ちょっといいか。こちら鷺ノ宮女子高校の田所監督と遠藤さん。おまえと話がしたいって」

それまであたりの空気をひとり占めしているような顔をしていた森本は学校名と遠藤の名前を聞いたとたんにゆるんでいた頬の筋肉をひきつられせた。

「どうもどうも。何度かテレビでは見たことはあったけど、いやあ、やっぱり目の前で走るとこ見るとぜんぜん違うね。なんていうかしなやかっていうかダイナミックっていうか」

「あ、はあ、どうも、です」

急に流暢にしゃべりだした田所のほめ言葉に、森本は生返事で対応した。

そして目はじっと歩美の顔にすえられていた。

歩美は制服を着ていたから周囲は気づかなかったが、高校陸上で脚光を浴びているふたりのツーショットはあたりに緊迫した空気を漂わせるに十分の迫力があった。

「自己ベストはどのくらい?」

ちらっと自分の監督に目をやり、まだ三十代前半の若い監督がこくっとうなずいたのを確かめて、

「いまは十三秒五五です」

はっきりした口調でそう答えた。

いまは、という言い方が歩美の琴線に触れた。

「ああそう。ウチの遠藤とははじめて、だよね。これから顔を合わすことあるかもしれないので、ひとつよろしくお願いしますね。な、え、遠藤? どうした?」

歩美はただの一言も口をきかないばかりか、うなずきもぜず、ただ森本の目を正面からにらみつけていた。

闘争心丸出しの歩美に森本も一歩も引かず睨み返している。

田所は相手の監督をちらっとみて、

「おい、あいさつが終わったら行くぞ。どうもおじゃましました。ほら、こい、こいったら」

さっきとは逆に今度は田所が歩美の腕を引っ張っていった。その場を離れながらも、歩美は森本に鋭い視線を飛ばし続けた。

「なにやってんだ、おまえは。まったく。いってることとやってることがむちゃくちゃじゃないか」

他の競技者たちに紛れ込んだところで、田所は歩美の腕を投げるように離しながら憤慨して見せた。

しかし、それはポーズで内心はライバルに対してストレートに闘争心を投げつけたことを喜んでいると、歩美には見て取れた。

ただ、そのことは敢えて口にしなかった。

「脚力だ」

「…え?」

「あいつの脚の筋肉、見たか? あれはかなり筋トレで鍛えている脚だ。おまえの天才的な才能をさらに伸ばすとしたら筋力をつけるのが一番手っ取り早い。短時間で結果を残すならそれしかない」

田所は力のこもった目つきで遠くを見つめた。その顔には、さっき歩美が見せた、さわればやけどしそうな闘争心がみなぎっていた。

「よろしくお願いしますっ。じゃあ、さっそく明日から」

「そうだな、よし。いや、その前にちゃんとさっきの約束は守れよ。いいな」

「もちろんです」




 

来るときにはよく晴れた天気とは裏腹に世界中の人間が恨めしく思えてどん底の気分で電車に乗っていたが、帰りはキラキラ光るメリーゴーランドに乗っているようで心地よかった。

問題は「診断書」だったが、担当医が忙しくて、とか、適当にごまかせばなんとかなる、そんなことよりいかにいまのスピードをさらに上げるか、歩美にはそっちのほうがはるかに重大な問題だった。



翌朝の五時。

枕元でけたたましく目覚まし時計のベルが鳴った。

日曜日だったが、その日も朝一番に学校へ行くつもりだった。

美佐江にみつかってまた言い争いになるのもいやだったのだ。

ふとんから手を伸ばし目指し時計を止め、もぞもぞとふとんから這い出たそのときだった。

歩美は全身の血が凍りついた。




──見えない




ねぼけているのか、そう思って中空をまさぐったが、なにも手に触れない。

あまりにも恐ろしくて、というより何が起こったのかを冷静に判断しようとして、あわててふとんを頭からかぶった。

何度も何度も、まぶたが擦り切れるほど念入りに目をこすった。

そして天井からのぞく悪魔の顔をのぞき見るようにそっと、顔を出した。かろうじてものの輪郭は見えるが、それが何かは判然としなかった。

これが槙田がいっていた後遺症?

「きっしょー!」

それが、歩美が吐いた第一声だった。

悲しみより怒りが口から吐き出された。




これからっていう時に。

まだわたしは何もしてない、そうなんだ、これからわたしは光り輝く未来に向かって走っていかなきゃらないっていうのに。



ベッドから出て手探りで窓を開けた。

いつもならこの時間でも初夏の強い日差しを浴びてきらきら光った街並みがまぶたに映し出されるはずだった。

しかし──歩美の視界にはおぼろげな風景が、砂漠の蜃気楼のように、ただ漠と広がっていた。

何度も目をしばたたかせたが、ピントのぼけた風景をただむなしく切り取るだけだった。

歩美はベッドの上にひざをかかえて座った。




もしかすると一時的な症状なのかもしれない。

そう、きっとそうだ。

だって昨日まではちゃんと見えてたし。

確かにちょっとかすんだりはしてたけど、たった一日でここまで見えなくなるなんておかしい。

冷静に。

ここは落ち着いてよく見極めるんだ、歩美。落ち着け、落ち着け。





歩美は、ややもすると口からあふれでてきそうになる恐怖心をプラス思考で一生懸命抑えていた。

とにかく、ここにじっとしてるわけにはいかない。

みんなが起きてきたらまためんどうだし。

クローゼットに張りつくように目を近づけて出かける準備を始めた。

いつものナイキのスポーツバックにシューズなどの用具を詰め込み、そっと部屋から出て洗面所の鏡の前でいつも見知った顔ではない、なにか違う生き物の頭をさわるような感覚で髪をさっと整え、静かに靴を履いて外に出た。自分でも不思議なほど気持ちは落ち着いていた。


とても自転車には乗れそうもなかったので、バス停まで歩いていくことにした。

周りの景色は思いっきり水で薄めた水彩画のようにすべての色と輪郭がにじんで見えた。

自分の体がおかしくなっているのに、歩美はまるで他人事のように平常心のままだった。

それがなぜなのか、自分で自分がわからなかった。


早朝の街は車や人通りも少なかったが、視界が悪い分、音には敏感に反応し、遠くでクラクションが聞こえると反射的に立ち止まった。

マンションが建つ丘のゆるやかな坂を下り、大きな民家の塀に囲まれたT字路を左折しようとしたそのときだった。

右側から猛スピードで走ってきた自転車に追突された。

前輪が左腿を直撃し、そのまま塀に跳ね飛ばされた。

追突してきた自転車のほうは横転したものの、それほどダメージはないようだった。

「いっつー」

歩美は顔をゆがめ痛打した左腿を押さえながら相手の顔を睨みつけようとしたがよく見えない。

背格好から大学生らしかった。

信じられないことに加害者は自転車を起こし一瞬歩美を見て一言も発しないまま逃走してしまった。

しばらく歩美は横になったまま動かなかった。

脚が痛かったのもあるが、立て続けに自分に災厄をもたらす自転車との因縁につくづく腹を立てていた。

小学校のときブレーキが壊れたというだけでゴミ捨て場に捨てたことがいけなかったのか、中学校のとき、いじめグループがクラスメートの自転車をわざとどぶに落としたのをとがめなかったことが悪かったのか、いずれにしてもいくら自転車を呪ったところで事態は解決しないことに気づいた歩美はよろよろと立ち上がり、ジャージについた砂を払い、平静を装って右足を引きずりながら、早朝の日差しをあびてキラキラ光るアスファルトの上を歩き出した。

いったいどこへ行くつもりなのか、そのときはただ必死に歩くことだけに一生懸命だった。

ブロック塀に手をそえぼんやりした風景の輪郭をたよりに、鈍痛のする右足をかばいながら十メートルほど進んだところで、アスファルトを踏んでいた足が宙を踏みぬけた。

とっさに手を伸ばし受身の姿勢をとったが、体は狭くて暗い隙間に吸い込まれた。

どろっとした感触と、水が腐ったにおいがして、どぶにはまったことがわかった。

上下のジャージだけじゃなく、髪の毛にもどろが付着し、全身から強烈な悪臭を放った。



「きょうは、練習休もう」



どろにまみれた手で頬をぬぐいながら、歩美はぼそっと口に出した。

口に出さなければなにかがあふれでてきそうだった。






携帯電話を取り出し、片方の目を近づけ、田所の電話番号を探した。

すぐに思い直し、マネジャーの吉川の携帯電話番号を探した。

ジャージのズボンの裾からどろ水をしたたり落とし、獲り憑かれたような形相で携帯電話を目に押しつけている光景を、通りかかったウォーキング中の初老の男性が、不思議なものでも見るような目つきで立ち止まって凝視していた。

男性に気づかない歩美は必死に携帯を操作していた。


ようやく吉川の文字を探し、彼女の携帯電話番号を表示させた。

吉川はすぐに電話に出た。

一瞬いいよどみながらも歩美は親戚に不幸があったのできょうは練習を休むと伝えた。陸上を始めて四ヶ月、練習を休んだのはこれが初めてだった。


自転車に激突され、側溝に転落し、満身創痍の状態で、歩美は行く当てもなく、足を引きずってあたりをさまよった。

そしていつしか因縁の小学校に向かっていた。

小学校の門は閉まっていたが、門扉を押すとすんなり開いた。

子供の声がかすかに聞こえるが、歩美の瞳にはっきりと像が投影されるものはなにひとつなかった。

先週の日曜日、初めてこの小学校を訪れたときと同じように、歩美は街が一望できる校庭の端に向かった。

そして金網を両手でつかみ、顔面を押しつけた。

空はところどころ青みがさしているが、晴れているのか、雲が多いのか、判然としなかった。

それどころか空と街並みの境目さえ、歩美にはわからなかった。

ときおり、強い風が丘を駆け上がり、歩美の体は金網からひきはがされそうになった。

ここから見た街は、十七年前に生まれ、十七年間育った自分のすべてといってもいいこの街は、想像した以上に小さく、自分自身もちっぽけな存在に思えた。

これから、翼をえた自分は大きく跳躍し、世界を広げるのだ。

こんなちっぽけな街で思い悩んでいたことが、馬鹿らしく思えた。

それが今、その小さな街並みさえ見えない。

視界をさえぎる膜が自分を閉じ込める壁のように思えて、歩美は突然、得体の知れない孤独感に襲われた。

そして、これまで絶えていた涙がとめどなくあふれでてきた。

目からあふれた涙はほほを伝い、足元に流れ落ちた。

唇を噛んでがまんしていた小さな嗚咽が口からもれたとたん、堰を切ったように歩美は大きな声をあげて泣きじゃくった。

金網をひきちぎろうとするほどの力で、つかんでいた金網を前後に激しくゆさぶった。



「こんな、こんなことになるなら、ハードルなんてやらなきゃよかった。わからない。どうして? どうしてこんな試練をうけなきゃいけないの? わたしが何をしたの? ねえ、どうして? どうしてよー」



最後は気がくるったように絶叫していた。

その声も強風に運ばれ、青空に吸い込まれていった。

涙を流せば瞳を覆う膜を洗い流してくれるんじゃないか、そんなはかない希望も重なって、歩美の涙はいつまでも止まらなかった。
 




自宅に帰ったときにはもう昼を過ぎていた。

時間の経過も空腹感もまったく感じなかった。

ただ、虚脱感だけが歩美の体を支配していた。


さすがに歩いて帰る気力がなく、タクシーを拾った。

マンションのエントランスでは壁づたいに歩き、ようやくエレベーターまでたどりついた。

一階の昇降口には歩美のほか数人の住人も待っているようだったが、歩美にはよく見えなかった。

全身泥だらけの上に臭いも強烈で、一見すると明らかに不審人物だったが、歩美にはそんなことはどうでもよかった。

扉が開き、後ろで待っていた住人に背を押されるようにしてエレベーターに乗り込んだ。中に入ると、

「八階」

ぶっきらぼうに誰にともなくそう言った。



八階まで上がったときにはエレベーター内には歩美しかいなかった。

扉が開き、通路のへりをてすりのようにつたってようやく自宅の部屋の前にたどり着いた。

バックの中をまさぐってカギを探したが、持って出るのを忘れていたことに気づき、しかなくチャイムを押したが、中からは何の反応もない。

歩美は玄関のドアの前でひざをかかえて座った。

目を閉じ、顔を、組んだ両腕の中に押し込んだ。そして深い、暗い海の底に沈んでいくように眠りに落ちた。

「歩美? 歩美でしょ。なにやってんの、こんなとこで」

どれくらい時間がたったのか、耳元で美佐江の剣のある声が聞こえて目が覚めた。

「まったく。どこいってたのよ。いったい何回携帯に電話したと思って…あ、歩美、あなたなにその格好? 泥だからけじゃないの。それに、この臭いったら。何があったの?」

なにか犯罪にでも巻き込まれたのでは。

仕事柄、数々の陰惨な事件を見聞きしている美佐江の脳裏にそんな不安がよぎったのも当然だった。

「……なんでも…ない。落ちたの」

歩美は足の痛みを悟られないように我慢しながら立ち上がり、小さな声でいった。

「落ちた? 落ちたって…どこによ」

「…どぶ。家のカギ、忘れたから、待ってた」

「どぶ? どぶって、あんた子供じゃないんだから」

美佐江が不信感をあらわにして歩美の顔をのぞきこんだが、歩美にはわからなかった。

「とにかく中に入りなさい」

中に入るなり美佐江は気力の失せた人形のように突っ立っている歩美の腕を強引に引っ張り浴室に入れた。

シャワーから出ると、リビングから美佐江が呼ぶ声がした。

「歩美、ちょっとこっちに来なさい」

有無もいわさぬどすの利いた低い声に気圧され、歩美はリビングに入った。

「ここに座って」

さすがに住み慣れた自宅の中だけに、目は見えなくてもテーブルやイスの位置は体が覚えていた。

美佐江の前に座ると両手をテーブルに乗せ、爪をいじり出した。

美佐江の小言を聞くときのいつもの癖だった。

といってもこうして面と向かって小言を言われるのは久しくなかったように歩美には思えた。


「歩美、あんた病院いってないでしょ。きのう先生から電話があったのよ。歩美さん検査にお見えにならないんですが大丈夫ですかって。てっきり病院に行ってるもんだと思ってたからもう驚いたわよ。そうかと思ったら泥だらけで帰ってくるし。なにがどぶに落ちた、よ。まさか部活の練習に行こうとしたんじゃないでしょうね。あれだけいっといたのに。何考えてんの? え? 自分の体でしょ。もっと大事にしなさいよ。なにに反抗してんだか知らないけど、怪我したのは自業自得でしょ。それともお母さんになにか責任でもあるわけ? 冗談じゃないわよ、責任どころか、お母さんの仕事のスケジュールはあんたのおかげでもうむちゃくちゃなんだから。少しは反省の色でも見せたらどうなのよ」

「まああんまり責めちゃだめよ、美佐江。今は難しい年頃なんだから」

いつからそこにいたのか、ソファの方向から律子の声がした。

「あなたのときだってそりゃ大変だったんだから」

「お母さんは黙ってて。いまここでビシっていっておかないといつまでも自分勝手な行動するんだから。好きなことやって、テレビや新聞や雑誌に出て、ちやほやされて、もう十分でしょ。そろそろまじめに将来のことも考えなさい」

まじめに? 将来? 歩美は無意識のうちに口が曲がり、いじっていた爪にもう片方の指の爪を力任せにねじ込んだ。

「ちょうどよかったのよ、今回の怪我も。まああんまり時間はないけどこれから猛勉強して、せめて清和大学くらいには入ってよね。いろいろ知り合いの編集者に聞いていい塾を教えてもらったから。ほら、これ申込書。いい? 今まではあなたのわがままを聞いてあげたんだから、少しはお母さんのいうことも聞きなさい。ほんとに。早くわたしにも仕事させてよ。ああ、あとね、しばらくは家のことはおばあちゃんにやってもらうから」

仕事を何本もキャンセルさせたのは申し訳ないとは思うが、そのとばっちりで、いままで進学のことなんてほとんど興味を示さなかったくせにいまごろになって塾だ、大学だっていわれたんじゃたまらない。

わたしにはハードルがすべてだった。

いまだってそうだ。

でも…もう走れない今となっては、将来なんてどうだっていい。

歩美はぎゅっと唇を噛んだ。

そしてすぐに、でも…目がこんなことになって普通に生活することさえままならないんだけどね…そう思ったら少しは溜飲が下がった気がした。



「とにかくこの申し込み書に必要なとこ書いてお母さんに渡して。なかなか教室の空きがなくて大変だったんだから。来週からいくのよ。わかった? わかったら早く書いて」

これから起こる事態を考えて、歩美は少し体が震えた。

「ほら、早く。お母さんも忙しいんだから」

美佐江は歩美の手にボールペンを握らせた。

観念してボールペンを握ろうとしたら、握り損ねて手から落ちテーブルの上をころがった。

歩美はうっすらとまぶたに浮かんでいるボールペンの残像を追って手を伸ばした。

しかし手を伸ばした先にボールペンはなかった。

その残像のあたりをまさぐったが、手には何も触れなかった。

「歩美? あなた…」

美佐江の突然の緊迫した声に驚いて、思わず律子がソファから立ち上がった。

美佐江は体を曲げてテーブルからカーペットに落ちたボールペンを拾って歩美の前にそっと置いた。

それでもまだ歩美はテーブルの上をまさぐっている。

事態を悟った律子がそっとテーブルに近づいてくる。

「歩美、こっちを見なさい」

歩美は手を止め、美佐江に向き直った。

「これ、何本に見える?」

美佐江の声色の変化に気づき、歩美は体中から力が抜けていくのを感じた。

「ね、これ何本?」

「……」

「歩美ちゃん、見えないの? ママの指が。ねえ、見えないの?」

律子の声も震えている。

突然、歩美は立ち上がった。

反動で椅子が渇いた音をたてて後ろに倒れた。

ふたりに背を向けるとリビングのドアにぶつかりながら自分の部屋に逃げ込んだ。

美佐江と律子は目の前につきつけられた現実を理解するのに精一杯で、ただ呆然と歩美の背中をみつめるしかなかった。


部屋に逃げ込んだ歩美はベッドにうつぶせになって倒れこんだ。

頭の中に啄木鳥でもいるように、カタカタカタカタと鳴り響いた。

さっきさんざん泣き倒したからか、涙は出てこなかった。

悲しいと思う感情もわいてこなかった。

さっき流した涙といっしょにいろんなものが流れ出て、まるで体の中がからっぽのようだった。

なにもかも終わった、そんな脱力感だけが、からっぽの体に充満していた。


しばらくして、ドアの向こうから美佐江の声が聞こえた。

「歩美? ね、歩美、大丈夫?」

歩美は答えない。

「槙田さんからね、事前にいわれてたのよ、後遺症について。もしかすると目が見えなくなるかもしれないって。でもそれは心配しなくてもいいの。手術すれば直るって。ね、聞いてる?」

ベッドに顔を埋めながら、歩美は女みたいに眉の薄い槙田の顔を思い浮かべた。

美佐江のいってることは、たぶんうそじゃないだろうと、美佐江の落ち着いた声色で判断した。

手術? 手術すれば本当に直るんだろうか。歩美の目に力がやどった。

「ね、だからあした槙田さんに見てもらうの。わかった?」

歩美はあおむけになり、霞のかかった天井を見上げた。

遠くにハードルの白いバーが浮かぶ。

一本、二本、そして十本。

自然に脚がうずく。

目をこらす。

十本目のハードルの先に誰か笑いながら立っている。

どこかで見た顔。

忘れたくて、でもいつも頭の片隅に張りついていた顔、武高・森本恵。歩美は跳ね起きた。

「お母さん、ほんとに直る? 手術すれば直る?」

「もちろんよ。槙田先生がそういってたから」

ドアの前で中の様子をうかがおうと耳をすましていた美佐江は即答した。

「だから、あんまり思いつめちゃだめ。わかったわね?」

歩美は静かにまぶたを閉じ、体からすっかり流れ出た「希望」の破片を拾い集めた。






2015年10月17日

山田バンビ『ひだまりの夏』-08

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「わたし…わたし…」

田所は悪魔の宣告を待つようにその場に立ちつくした。

「勝ちます、勝ちますから。いや、勝ち負けじゃなくて、あの、日本で一番速いランナーになりますから。だから、あの、これからも、ご指導お願いします」

歩美は寝たまま頭をかけぶとんに押し当てた。田所は持っていたドアノブを力任せに握った。折れてしまうほどの力で。

「おまえなら世界…」

そういった瞬間、歩美が顔をあげた。田所はあわてて言い直した。

「わ、わかった。わかってる。ふたりでがんばっていこうな。俺がしっかり支えてやるから。どんなことがあっても」

そこまでいうと田所は静かにドアを閉めた。閉めてからしばらくその場から動けなかった。









美佐江がもどってきたのは、けっきょく翌日の、歩美が退院したあとだった。

律子とふたりで居間でテレビを見ていると、いきおいよくドアを開けて美佐江が入ってきた。

「どうなの、歩美、具合は。テレビなんか見てていいの?」

律子はそっと席をはずした。そこへ美佐江が険しい顔つきで座った。

「もうなにやってんだか、この子は。終わったことだからなにいったって仕方ないけど、子供みたいなマネして大怪我して」

「別に大怪我なんてしてないよ」


久しぶりに聞く美佐江の小言に、歩美は少し鼻にかかった声で反論した。

「明日も病院に行くんでしょ。お母さん、仕事キャンセルしたから、しばらくはおうちにいるから」

「病院なんかひとりでいけるいいのに」

「いちいち突っかかるんじゃないの。あんたって子は。こっちの気もしらないで、ほんとに」

口をとがからせる歩美に、美佐江は苛立った声をあげた。

目の前に出来した事件に自分の仕事をキャンセルしてまで対処しなければならないことへの苛立ちが顔中に張り付いていた。

「とにかく安静にしてなさい。いいわね」

そういって、仕事道具であるノートパソコンが入ったショルダーバックを肩にかけ、仕事部屋に入っていった。

歩美は母親の背中を不思議そうに見ていた。

いつもならこれぐらいのことでいちいち仕事をキャンセルするなんてことはなかった。

律子にまかせればすむ話である。そこまで不機嫌になるくらいならいないほうがよっぽど楽だと、歩美は思った。



翌日、歩美は美佐江と一緒に病院へいった。美佐江は受付の女性としばらく話をし、

「こっち」

と、歩美のそでを掴んでうながした。

連れられていったのは、昨日まで寝ていた病棟とは違う、奥の真新しい別館のほうだった。

本館のわさわさした雰囲気とは違う、どことなくよそよそしいというか、仰々しく思えて胸が苦しくなった。


名前を呼ばれて診察室に入ると、四十代前半と思しき医師が恭しく歩美を招きいれた。

「どう具合は。だいぶ顔色はいいようだけど。あ、覚えてないか、ぼくのことなんか。昨日は脳震盪起こしたままここにきたからね」

椅子に座るなり、槙田というネームタッグをつけた医師が顔をのぞきこんできた。歩美はそれには応えず黙って下を向いていた。

「そういえば、この前きた患者さん、こんなちっちゃな女の子なんですが、どうしても診察してくれって、自分がもってきた、なんですか、古いぬいぐるみをおしつけられまして、しかたないから聴診器当てて、診察するふりしたんですが。いや、あんときは参りましたよ、ははは」

普段は軽口など叩かないのだろう、縁なしメガネの奥の目は笑っていなかった。リラックスさせようとしたのだろうが、却って疑念を増殖させる結果になった。

「あのー、すみません、きょうも検査するんですか?」

「え? そう、そうなんですよ、きょうはCTスキャンをね、ほら頭を輪切りにして調べるやつ。歩美ちゃんもテレビかなんかで見たことあるかなあ。まあ、あくまでも念には念を、ということで、ほら、頭だから、ね」

「先生、私、高校で陸上やってまして、試合も近いのでできたら早く練習にもどりたいんですが」

それまでどこかおろおろしていた槙田は、歩美のそのひとことで人が変わったように落ち着きはらった口調になった。

「ええ、知ってますよ、もちろん。遠藤歩美さん。テレビや新聞でね。私の娘もあたなの影響を受けてとつぜん陸上部に入るなんていいだしまして、いや止めましたよ。だってそうでしょ。あなたみたいに素質があれば別ですが、素質があるかないかぐらいは親でもわかりますから。それで、遠藤さん、あなたの場合ですが」

槙田は小さいため息を吐いた。

「類まれな素質に恵まれ、偶然に陸上部の監督にその素質を見出させれるという運ももっている。いや、もっていたと、あえて過去形でいいますね。持っていた。二日前までは。そして昨日、あなたは事故に会ってその運を使い果たしてしまったわけです」

いったいこの医師はなにをいいだすのかといわんばかりに、美佐江は目を大きく見開いて槙田をにらみつけた。

「聞いた話によると、あなたは小学生と競走して自転車を飛び越えたらしいじゃない。ボクサーが素手でケンカするのと同じで、自分の能力をいたずら半分で使っちゃいけない。何があったか知らないけどそれは一生懸命がんばって練習しているほかのスポーツマンたちに対して失礼な話なんだよ。いやあなたががんばっていないといってるわけじゃなくて、スポーツはあなたが考えている以上にもっと神聖で、もっと高尚なものなんだとぼくは思うんだけど」

いいかたは違うがいつか桐嶋に指摘されて思わず反論したことを思い出し、歩美はみぞおちあたりに痛みを感じた。

「スポーツする動機はひとそれぞれだと思うけど、遠藤さん、あなたをつき動かしているのはなんだと思いますか」

さっきから説教されているような気がしていた上に思いもよらない質問をされ、歩美は動揺を隠し切れなかった。

「まあいいでしょう。僕の専門は脳外科で心の病はまた別な機会に。さて、話をもどしますが、さきほど頭の検査は念のためといいましたが、実はかなり激しい衝撃を脳に受けたようで、後遺症が出る可能性があります」

「後遺症、ですか」

間髪をいれずに歩美は槙田の言葉を繰り返した。美佐江が大きく息を飲んで背筋を伸ばしたのが歩美にもわかった。

「まあ、といってもそれほど心配することはないんですが。いや、ここで自覚をもって治療に専念してほしいという程度の意味です。なにもなければいいし、もしなんらかの後遺症が出ても最小限に抑えるため、と考えていただければ。まあ脳波を調べたりして経過を見たいので、しばらくは通院してください」

「通院…」

「それから部活の練習は、私が許可するまで一切禁止です」

「え? 禁止って」

「わかりましたね。遠藤さん、これはあなたの体の問題ですから。絶対守ってくださいね」

有無もいさわぬ槙田の言い回しに歩美も言葉を失った。

助け舟を出してもらおうと美佐江の顔を見ると、美佐江は小さく舌を出して唇を舐めている。

考え事をしているときの美佐江の癖だった。

ジャーナリストという仕事柄、たとえ相手のいっていることがまともだったとしても強圧的な態度で迫ってこられたら、反射的に反発しないと気がすまない性格の自分の母親が、いまはいいくるめられて黙っている。


いやいいくるめられたわけじゃない。


そんな自尊心などどうでいいといわんばかりに、その奥に潜むもっと深刻な難問を必死に解き明かそうとしている、歩美にはそんなふうに見えて、槙田、母親、そして自分の位置関係を否応なく認識させられた。


槙田は手早くカルテに何かを書きいれ、そして歩美ではなく美佐江に顔を向けた。

「それでは、歩美さんはあちらの部屋に移動してください。それからお母さんは、ここに残っていただいて。ちょっと今後の治療方法についてご相談がありますので」

「…ええ、そうですね。そうしましょう」

明らかに美佐江の態度がおかしいとは思いながら、歩美は看護師に促されて別室に移動した。

検査が終わり会計をすませてる間、美佐江は一言もしゃべらなかった。

ひとりで何か考え込んでいた。時折り思い出したように携帯電話を取り出し、仕事の打ち合わせをしたりしたが、電話の会話さえもどこか上の空のように歩美には見えた。




自宅に帰ると律子がごちそうを用意して待っていた。

「さあささ、歩美ちゃん、おなかすいたでしょ。美佐江も。ごくろうさん。さっきね真彦さんから電話があって、今日はなるべく早く帰るって」

真彦の名前を聞いて、美佐江は反射的に律子を見た。

「へー、そうなの。あの人もそんな甲斐甲斐しいとこあるんだ」

「これ、美佐江」

律子にたしなまれ、美佐江はちょっとふてくされたように顔を背けた。

歩美はテーブルにピロシキが出ていないことを確かめると、自分の部屋に入った。

ベッドに横になり、和紙のような模様が浮き出た天井を見つめた。

そして槙田のいったことを思い出した。




部活の練習は自分が許可するまで禁止? 冗談じゃない。
いったい私を誰だと思ってるんだろ。
間もなく日本の陸上界に名を残そうというときに、のんきに寝てられるわけない。
たぶん、あの人はことの重大さを認識していないんだろう。
たとえ一分たりとも立ち止まることは許されないんだ。



歩美は天井に向け両脚を突き出し、腰に手を添えて宙で脚をかいた。

槙田の深刻ぶった顔を踏みつけるように。

出張先から帰ってきてからというもの終始不機嫌な顔の美佐江を蹴り飛ばそうとでもするように。

翌日は美佐江と大喧嘩したあと、結局学校は休まされた。あしたは這ってでも練習に行くからね、そう捨て台詞を吐いて部屋に閉じこもった。



そして次の日。絶対に部活に顔を出しちゃだめよ、美佐江のきつい言葉を背中に受け家を出た。

教室に入ると、ミユキと倫子が飛んできた。

「聞いたぞー、ボンバー歩美。地面にヘッドバッド食らわしたんだって? そんなにK―1選手にあこがれていたとは」

「もう、ミユキったらいきなりなに言い出すの」

久しぶりにふたりの他愛ない掛け合いを聞いて、歩美はようやく背中にしょっていた重い荷を降ろした気がした。

「そうなのー。まるで歯が立たなかったけどね」

教室の隅で三人揃って笑い転げているそのとき、一瞬、歩美は視界がゆがんだ気がした。

笑いながら何度も目をしばたかせて視界を覆う薄い膜を取り払おうとした。

そのおかしな動作にいち早く気がついたのは、やはり倫子だった。

「歩美、どうしたの? まだ頭、ふらふらするとか?」

「ううん、そんなことない。ちょっとゴミが入っただけ」

あわてて歩美は答えて、ふたりから逃れるように自分の席に座った。

終業のチャイムと同時に歩美は駆け足で部室に向かった。

この数日、練習できないことへの不満と不安がい織り交じって、イライラ感は頂点に達していた。


勢いよくドアを開けると、先に来ていた部員がいっせいに歩美に目を向けた。

そして歩美だと気づくとあわてて視線をそらした。

かまわず歩美は部室の奥の自分のロッカーに向かった。

「遠藤」

陰のこもった低い声がした。振り向くと田所が思いつめた目で歩美を見ていた。

「ちょっと話がある」

そういってさっさと部室を出ていった。

有無をいわさぬ田所の態度に気圧されて、歩美もあわてて後を追った。

渡り廊下を歩いているときも、田所は振り向きもせず、ただ黙って先を歩いていた。

内股の歩き方とアンバランスないかつい肩をながめながら、歩美はただならぬ気配を感じて、うっすらと背中に冷たい汗をかいた。


旧校舎の廊下のはずれの、いまは使用されていない教室に入ると、積み上げられていた椅子を二つもってきて、相対するように並べた。

そしてそこに座るように、手で促した。

「実はな、さっきお母さんがお見えになってな」

田所の声はどこか震えていた。

「おまえをやめさせたいと」

歩美は、不思議と冷静だった。ただ黙って田所の顔を正面から見据えていた。

「まあ、この前の怪我も完治するには時間がかかりそうだし、それにもう高校三年で、いいかげんそろそろ将来のことも考えて勉強に専念させたいと、まあこういうことだ」



冗談じゃない。

槙田といい、お母さんといい、けっきょく自分のことなんてまったくわかっていない。

怪我の後遺症が心配だから大事をとって…。

なにが「大事をとって」だ。

そんな悠長なことをいってる余裕なんて私にはこれっぽっちもないのに。

いったい私を誰だと思っているんだろう。

お母さんにいたっては、ただ娘から陸上をとりあげたいだけなのだ。

自分の生活をむちゃくちゃにされて、ジャーナリストとして多少なりとも注目を集めていたとろこへ、突然乱入してきた娘が脚光を浴びてプライドを傷つけられ、心底腹を立てているのだ。

自分の娘に。

しかもこれまでまったく感心を払わなかった進学やら将来の話まで持ち出して。まったく、冗談じゃない。





「監督。母親がなんといったか知りませんが、私はやめる気は毛頭ありませんから」

ある程度、歩美の反応は予想していたのだろう、そういわれて田所は落ち着き払った声でいった。

「でもな、遠藤。お母さんがいうことは、実はいたって正論なんだよ。事実、おまえは三日前に小学生相手にむちゃをやらかして怪我をした。その怪我のダメージは現時点でははっきりしない。医者はしばらく安静にしていろといっている。それから、おまえが三年生であるというのも動かしがたい事実であって、おまえの将来に責任をもつ親御さんが、そろそろ学業に専念させたいと思うのは至極まっとうなことだろ」

「本気でそう思ってます?」

歩美のさぐるような目で問われて、田所はつい反射的に動揺してしまった。

「監督」

急に押し殺した声で田所を呼び、歩美は顔を近づけた。

「私、自信があるんです。絶対いい記録を出します。本当です。いままで監督のご指導のもとで一生懸命やってきました」

そこまで話して、歩美は小さくあごを突き出した。

「この前は、ちょっと暴走してしまって、あの、すみませんでした。今回の怪我は、監督のいうことを聞かなかった罰だと思っています。これからはちゃんということを聞きます。だから、だから応援してください。いままでみたいに、ふたりでみんなをあっといわせましょうよ。ね。母親には私がわがままいって監督にしぶしぶ了解したってことにしますから。お願いします。チャンスをください。お願いします」

ひざの上にのっていた田所の手を握り締め、歩美は深々と頭を下げた。

下げながら口元をゆるめた。




これで監督のほうは大丈夫だ。

自分の記録に賭けているのは十分すぎるほど伝わってきている。

監督が本心から自分を引退させるはずはない。あくまでも母親の要請に応えたという、ポーズにすぎないはずだ。



田所はあくまでも同じ目的を共有した仲間であるいう自信が歩美にはあった。

しばらくの間。

ふたりの間に沈黙があった。

そして突然、田所は自分の手を握っていた手をふりほどいた。

「遠藤。悪いが俺はこれ以上おまえの話に耳を傾ける気はない。さっきもいったように医者からもしばらくは安静にするようにいわれているわけだし、事態が事態だけにおれもこれ以上ゴリ押しはできんのだ。わかるだろ。それに、ほら、そんなにあせらなくてもおまえにはまだまだ時間がある。いい機会だし、いまはゆっくり休養しろ」

思いもよらならい田所の言葉に、歩美はしばし呆然として田所の顔をながめていた。

「時間? 時間なんて、あるわけないじゃないですか。だって、だってそうでしょ、高校生活は残り少ないんですよ。私は高校生のうちにトップに立ちたいんです。それが、監督だって望んでいることでしょ。違うんですか。なんで? なんでそんな、そんなことを…。どうして母といっしょになって私をいじめるんですか。先、こされちゃう、こうしてる間にも、誰かに先、こされちゃうよー、監督、なんとかいってよ」

子供のようになきじゃくる歩美を正視できず、田所はじっと目を閉じていた。ただじっと時間が過ぎていくのを待っていた。

田所のかたくなな態度を見て、歩美は事態は想像以上に深刻になっていることを悟った。

「監督は知らないでしょうけど、母は、お母さんは、私のことなんてなんにも、これぽっちも心配なんてしてない。昔から、小さいときからそうだった。気にするのはいつも自分のことばっかり。世間体ばっかり気にして。私はお母さんの子供なんかじゃない。ペットみたいなものだった。自分の邪魔をせずにただ家でじっとしていてくれたらそれでいいの。お父さんだって、一年にいったい何回私のことを思い出してくれてるのか知れたもんじゃない。私なんていないほうがよかったんじゃないかって小さいときよく思ってた。見返したいの。もうあなたたちのペットじゃないって、ちゃんと一人前になって自立したところを見せたいの。監督、お願い。もしお母さんがどこかに記事を載せるのが怖いのなら、それは私がなんとかします。桐嶋さんだってきっと味方してくれるし。大丈夫です。ね。だから」


「そんなんじゃない。この話はもう終わりだ」

田所は我慢できず立ち上がって怒鳴った。そして、大股で教室を出て行った。

後に残された歩美は、田所が出て行った出入り口をしばらくうつろな目で見ていた。

全身の筋肉が、自慢の脚がぜんぶ鉛に変わってしまったように重かった。

懸命に頭の中で整理しようとするのだが、田所に裏切られたという思いが邪魔をして、いつまでたってもぐちゃぐちゃのままだった。



しばらくして歩美はふらふらと立ち上がり、自宅に帰った。どうやって家にたどり着いたのか、なんにも覚えていなかった。

玄関のドアを開けると、ちょうど美佐江が自分の仕事部屋から出たところだった。

歩美はまるで自分を貶めようと意地悪い目つきでうろついている悪魔から逃れようとでもするように、顔を思いっきりそらして急いで玄関横の自分の部屋に逃げ込んだ。

そしてマンション中に響きわたるほどの大きな音を立ててドアを閉めた。




このままじゃ絶対終わらせない。

陸上を取り上げたらおとなしく以前のペット生活に舞い戻ると思っていたら大間違いだ。

走ってやる。

走って、走りまくって、高校記録、学生記録、日本記録を次々に塗り替えて走って走って、みんなをあっといわせてやる。

あっと…走りたい…ああ、走りたい、走りたい、走りたい、走りたいよう。




歩美は机に向かいながら、両手を握り締めとめどなくあふれてくる涙を必至にこらえた。

晩御飯にも顔を出さず、夜中にこっそり起きて冷蔵庫の中に入っていたソーセージや牛乳やオレンジをむさぼり食った。

翌朝は律子や美佐江が起き出す六時半には家を出た。

玄関からそっと出ようとしたとき、奥から声が聞こえた気がした。

でもかまわずドアを閉めた。


学校につくなりすぐにグランド脇の部室に向かった。

部室に入ると早番の下級生たちが、昨日のドラマに出ていた人気アイドルの話に花を咲かしていた。

そして歩美に気づくとみんな一斉に口をつぐみ、体をこわばらせた。彼女たちを一瞥し、自分のロッカーに向かおうとしたそのとき、記録簿が積まれた机の上の黄色い用紙が目に留まった。

歩美の視線の先に気づいた二年生の部員があわてて机の前に立ち視界をさえぎった。

その挑発的な態度に反応して歩美はゆっくり彼女に近づき、

「そこ、どいて」

と男のような低い声で威圧した。

昨日の田所とのやりとりを境に歩美は性格が一変したようにみえた。

性格だけじゃなく、顔つきまで別人だった。

恐れをなして、二年生の部員は横にハネ飛んだ。黄色の用紙を手に取った歩美の顔がみるみる豹変した。

「なに、これ」

歩美に用紙を見せまいとした部員に用紙をつきつけ、歩美はすごんだ。

もちろん本人には脅している自覚なんて毛頭なかった。


「あ、急に決まって。最初は、出場する予定はなかったみたいなんですが、どうしても、っていわれて断れなかったらしくて」

高校、大学、実業団の合同練習会の案内パンフレットだった。

こんな大会に出るなんて歩美はまったく聞いていなかった。

「それってさあ、私に出てほしいってことなんじゃないの? 大会の目玉として」

二年の部員は口をわなわな震わせてただ黙って下を向いていた。

パンフを眺めていて、歩美ははっとした。

ハードル競技高校の部の欄に武岡高校の校名が入っていたのだ。

武高には歩美のライバルといわれている森本選手がいる。

歩美の目つきはみるみる赤く充血した。握っていたパンフが音を立てて握りつぶされた。

くしゃくしゃに丸めたパンフをポケットにねじ込み、また部員たちの顔をねめまわした後、部室を出て行った。
 







2015年10月10日

山田バンビ『ひだまりの夏』-07

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「私とかけっこで勝負して私が勝ったらおとなしくあの子たちにここを明け渡す。私が負けたら、そうねえ、アイスおごってあげるよ」

「やりー、おれハーゲンダッツね、あの高いヤツだよ」

小太りの男子が間髪をいれずにもう勝ったつもりで喜んでいる。

ほかのふたりの男子はお互いに顔を見合ってとまどったような笑みを浮かべている。

「でもさあ、おねえさん、陸上かなんかのひとじゃないの? だってさあ、自信なかったらそんなこといわないでしょ、ふつう」

「じゃこうしよう、ハンデあげるよ」

そういって歩美は小走りに駆け出し、グランドに一本線をンドにかかとで線を引き、そこから三十メートルほど先に一本、さらに十メートル先にもう一本線を引いてもどってきた。

「あそこからスタートしてあなたたちはあの手前の線がゴールでわたしはその先の線のところがゴール。ね、あれだけハンデがあればいくら私のほうが足が速かったとしても勝てそうでしょ?」

三人は顔をつき合わせて相談をはじめた。そして、

「却下。おねえさんのゴールをあと十メートル先にして。だったらいいよ」

そういってわざとらしく小太りの男子が腕組みした。いくらなんでもそれじゃ勝負にならないと思った歩美はあたりを見渡し、

「じゃあさ、あそこに止めてある自転車、あれあなたたちのでしょ。自転車二台をわたしのコースに置いて、わたしはそれを飛び越えて走るってのはどう? あ、でもそれってハンデありすぎかなあ」

歩美はわざととぼけたような顔をしながら提案した。また三人が頭をつきあわせてひそひそ話をはじめた。いたずらっ子がよからぬ密談をしている、そんな風に見えて、歩美は思わず吹き出しそうになった。

「いいよ、その条件で」

男の子たちは奇声を発しながら自転車のところまで駆けていった。


男の子たちが押してきた自転車を歩美はスタートからの歩幅を測りながら慎重に並べた。

男の子たちはウォーミングアップだとかいって歩美の周りをふざけながら駆け回っている。

「準備いいわよ、やろっか?」

歩美のその言葉にさすがに男子連中も緊張した面持ちになってスタートラインに集まってきた。

歩美は太ももを叩いたり屈伸運動をしたりして脚をほぐす。そうしているうちに、少しずつ体がほてってくるのが自分でもわかった。

それは柔軟体操で体がほぐれてきたせいだけじゃないことは歩美もわかった。

「たかが遊びなのに」

そうは思っても、勝敗を賭けて全力疾走することに変わりはないことを体は自覚していて、アドレナリンを大量に分泌させ筋肉を勝手に弛緩させているのだ。

歩美は深呼吸して目の前に並んでいる自転車をみつめた。

いつのまにか太陽の位置は高くなり、強い日差しをあびて真っ白になった地面に自転車の短い影を作っている。

石英かなにか混じっているのか地面はきらきらと光って、歩美はまるで海辺の砂浜にいるような気がして心地よかった。

「位置について」

そういって歩美はしゃがみ、クラウチングスタートの準備に入った。

それをみて横一列に並んでいた男子も真似してしゃがんだ。

歩美の視界からは男の子の姿なんかすっかり消えうせ、心臓が血液を送り込む音だけが鼓膜を震えさせる。

「よーい」

ドン、といった次の瞬間、歩美はすでに二歩目を踏み出していた。

獲物を狙うチーターのような前傾姿勢からゆっくりと上体を起こし、四歩目には早くもトップスピードに入っている。

大きなスライドで一台目の自転車を飛び越えたかと思うと二段ロケットが点火、重心がぐっと低くなりさらに加速する。

女の子みたいな甲高い叫び声が後ろから聞こえる。

しかし歩美にはそれが誰の声なのか、わからない。どこからかさざなみが聞こえてきた。

海が運んでくる少し湿った風がほほをやさしく愛撫する。


誰もいない海辺をただ全力で走っている、なぜ? 走らずにはいられない、じっとしているのがたまらなくもったいないような、体の奥底から沸きあがってくるマグマのような熱い塊が体中を駆け巡り、細胞のひとつひとつをスパークさせる。

歩美は夢の中で走っているような錯覚を覚えた。

全力で走っているのに体はまったく疲れない。

いつの間に二台目の自転車を飛び越えたのか、気がついたら自分で引いたゴール線をはるかに過ぎていた。我に返った歩美はようやくスピードを落とした。

「すげー、すげー」

「はやすぎー。もうむちゃくちゃ」

「なんじゃありゃー」

そんな素っ頓狂な声を出して、肩で激しく息をしながら男の子たちは地面にへたり込んでいた。

軽くジョギングしてきたといった程度の汗を腕でぬぐいながら歩美は男の子たちのそばへやってきて、

「勝負ありー。これで文句ないでしょ」

そういって女の子のもとへ行こうとした。

「ちょっとタンマ、ねねね、も一回だけ、ね、も一回だけやろ、やって、お願い」

でぶっちょが寝転がったまま、両手を合わせて歩美に懇願してきた。

「だーめ、それじゃ約束と違うでしょ。男に二言はないんだから」

「にごんってなに? ね、それよりほんと一生のお願い、あと一回だけやろうよ、ねー。だってさ、ずるいよ、おねえさん、プロでしょ。先にいわないとだめだよ」

「プロ」といわれて歩美は悪い気はしなかった。

「でもさ、もう一回やったって結果はおんなじだと思わない? だってほら、わたしプロだから」

プロだから、というところをわざと強調していった。

「だから今度は自転車三台置くの」

「えー?」

「えーじゃないよ、プロだっていうの隠してたのが悪いんじゃん。だいじょうぶだって、おねえさんならぜんぜん勝てるって」

なんの屈託もない男の子のその言い方が、歩美をまだむじゃきな遊びの世界から離そうとしなかった。

「で、わたしが勝ったらどうすんの? さっきと同じ条件だったらイヤ」

「おねえさん勝ったら」

でぶっちょは自分の肩ほどの背丈の男の子を指差して、

「こいつが、アイスおごるって」

「えー? オレ持ってないって、お金」

とんだとばっちりが回ってきた男の子が口をとがらせて反論する。

「じゃあ、みんなでお金出し合っておごって。ハーゲンダッツね、あ、わたしだけじゃなくてこの子たちの分もだよ」

いつの間にか近くで見学していた女の子たちを見ながら歩美がいった。

「なんでこいつらの分まで」

両手をあげて喜んでいる女の子をこずきながら、男子連中は不満を口にしていたが、ふとっちょがふたりの「子分」の肩に手を回し、なにやら耳元でささやいたあと、

「まあいいか、オッケー。それでいいよ」

そういっていかにもしぶしぶ歩美の条件を飲んだといいたげに口をへの字に曲げて見せた。

ふとっちょが押してきた自転車を歩美は二台目の自転車の先に設置した。


公平をきすために今度は赤いワンピースの女の子がスタートの合図を出すことになった。

男子はさっきとは打って変わって真剣な表情でウォーミングアップをしている。

彼らの表情が真剣になればなるほど、歩美はリラックスしていくのがわかった。

正直なところ歩美には三台どころか五台置いても負ける気がしなかった。

「じゃ、いきます。位置についてください」

女の子の声にみんな緊張した面持ちになった。

歩美はばれないように口元に手をあてて笑った。

「よーい、してください」

「ください、なんていわなくていいんだよ。バカ」

しゃがんだまま、ふとっちょが女の子をにらみつけた。

「うるさいなあ、じゃあいくよ、よーい」

ドンの号令の前に男の子たちは一斉にスタートを切った。

明らかにフライングだった。

「そういう作戦か」歩美はほくそえんで彼らから0・5秒ほど遅れてスタートを切った。

しかし、一台目の自転車を飛んだ時点ですでに彼らの嬌声は歩美の後ろだった。

重心がぐっと下がりさらに加速する。

映写機のフィルムのようにまわりの風景が猛スピードでコマ送りされる。

二台目の着地はまるで雲の上に降りたようにやわらかかった。

雲のかたまりが歩美の足の裏を押し上げ、さらに上空へはじき出す。

空のかなたへ続く階段を駆け上っているような心地よさ。



歩美は目をつぶった。

このまま真っ青な空に、夏色に染まり始めた風景に溶け込もうとでもするように。

夢の中でまどろみかけたそのとき、左脚になにかが触れた。

次の瞬間、ガラスがこなごなに砕けるように歩美が走り回っていた夢の世界は吹き飛んだ。

とっさに目をあけるとさっきまで海岸の砂浜のようにきらきら光っていた地面が形相を一変させ凶器の壁となって迫っていた。

じゅうたんのように広がっていた雲が突如抜け落ち、まっさかさまに地面に落下していく、歩美の脳裏にそんな光景がスローモーションのように映った。

トップギアで走っていたためひっかかった片足を軸に歩美の体は猛スピードで回転、固い地面に頭部を激しく叩きつけた。

世界が一瞬ぐにゃりと曲がり、そのままスイッチが切れたように視界からすべての光が消えた。


男の子たちは、歩美が三台目の自転車を越えディップの姿勢から左脚を畳み込もうとして自転車のハンドルに引っかかった瞬間、悲鳴に近い声を発した。

それまでただのひとつも、全身に埋め込まれた小さなネジ、ギアひとつひとつに至るまでまったく無駄のない動きを繰り返していた精巧なアンドロイドが、本来ならあるはずのない小さな石ころにつまずいて無防備に倒れこむ、そんなシーンを見ているようだった。

受身の姿勢もとらずに人形のようにごろごろと転がり仰向けになった歩美のもとへかけつけたときには、歩美はぴくりとも動かなかった。

ただうっすらと舞い上がった砂ぼこりが、たったいま起こった事態の深刻さをリアルに表していた。





 


恐ろしく暗い闇の世界だった。

誰かの声はするがその姿はまったく見えない。

ときおり笑い声が聞こえる。

楽しそうな笑い声ではなく、蔑んだ、小さいいやらしい笑い声。溜まらずその場から走って逃げ出そうとするのだが、いくら走ってもその声が後ろから、前から、あらゆる方向から迫ってくる。

なつかしい声がして歩美はその場に立ち竦んだ。

「倫子」

いま一番会いたいと思った名前を口に出した。

倫子の顔は見えるようで見えない。

もどかしくて泣きたくなって、歩美はまた大きな声で名前を呼んだ。

「倫子、倫子」

「わたしはここにいるよ」

倫子はいつもと変わらない鼻にかかった声でゆっくり答える。

「よかった。どっかいっちゃったのかと思ってた」

「ううん、ずっとここにいたよ。でもすごいね、歩美。この前テレビに出てるの見たよ。なんだか遠いとこにいっちゃったようでちょっとさびしかったけど。でもかっこよかった。ほんとだよ。練習キツくない? あんまり無理しちゃだめだよ」

「うん、ありがとう。でもね、わたしもう走れないから」

自分でいったその言葉に、歩美は胸が詰まった。

「どうして? 歩美、走らなきゃだめだよ。みんな期待してるよ。だって、もう、もどれないんだよ、昔には。歩美、走って、ね、走って」

「ねえ、倫子。もし、わたしが走れなくてもちゃんと友達でいてくれる? いままでみたいにいっしょにいてくれる?」

「……ごめんね。わたし、もういかなきゃ。じゃ、さようなら」

「の、倫子、ねえ、倫子ったら。いかないで、ひとりにしないで、お願い、もう、ひとりは、いや」

絶望的な暗闇の中で歩美は手をのばしたが、その手にふれるものはなにひとつなかった。

「歩美、歩美」

突如、歩美を呼ぶ声が聞こえた。ビブラートのかかった男みたいに低い声。

「おかあさん? おかあさんなの」

「だいじょうぶかい?」

「うん、怖かったよ、でももう大丈夫だから。ねえおかあさんだよね。探しに来てくれたんだ」




「歩美ちゃん、歩美ちゃん」

その声といっしょに暗闇から現実世界へ引き戻すように体をゆすられて歩美はようやく目が覚めた。

白い天井と鼻をつく消毒液のにおいから、歩美はここが病院なのだとすぐわかった。

一刻も早く抜け出したかった悪夢の底から出られたはずなのに、歩美の気分はなぜかより一層滅入っていた。

「歩美ちゃん、どう、目が覚めた?」

ベッドの脇から律子が顔をのぞきこんでいた。

さっき歩美の名前を呼んだのは律子だったんだとわかったとたん、歩美は腹が立ってきた。

「うん、だいじょうぶ」

ぶっきらぼうにそういって体を起こそうとしたとき、電気が走ったような激しい頭痛に見舞われ、思わずうめき声とともに顔をしかめた。

「あ、まだ起きないほうがいいよ、寝てていいから、ね」

頭だけじゃなく体中にきしむような痛みを感じてようやく歩美は自分がなぜここにいるのかを理解した。

「もうびっくりしたよー、ほんとに。病院から電話もらったときは心臓が口から出そうになったんだから。たまたま小学校に宿直の先生がいらして、子供たちから話を聞いたその先生が救急車呼んでくれたり、いろいろしてくれてね。そうそう、さっきまで子供たちもそこの廊下で待ってたんだけどね、あんまり神妙な顔してるもんだから、かわいそうになってね、話聞いたら別にあの子たちが悪いわけじゃないんだし、とにかくもうきょうはお帰り、っていって帰したとこ。ね、気分はどう? 吐き気とか、ないかい?」

「うん…」

「もう無茶するから。小学生相手になにやってんだか」

律子のあきれたといわんばかりの言い方が、歩美の癇にさわったが、反発もせず黙っていた。

「ママは? ママはこないの?」

別にどうでもいいけど、そんな口調で律子に聞いた。

「ママね、いま出張中で、大事なお仕事があるらしくてそれが終わり次第ここに来るって。たぶんすぐに来てくれるわよ。それまではおばあちゃんがいてあげるから、ね」

歩美は律子に顔を見られないようにとっさに顔をそむけた。

「それより、ね、歩美ちゃん、どう? なんか変なとこない?」

「なに、変なとこって」

糊が利いた枕カバーに頭を沈めて、歩美はめんどくさそうに聞いた。

「いえ、なにもないならいいんだけど、たとえば、ほら、目がかすんだり、見えずらかったりとか」

「目? うーん、そういえばさっきからちょっとかすんで見える。部屋中に煙が充満してるみたい。頭打ったショックかなあ?」

「そ、そうなの、かすんで見えるの」

律子の声が一瞬緊張した気がした。

「どうしたの? お医者さんがなにかいった?」

「ううん、そうじゃないの、そうじゃないのよ。ぜんぜん心配しなくていいから」

律子は所在なげにあたりに視線を泳がせた。

年をとると、うそをついたりごまかしたりすることも不器用になるのかと、歩美は冷静に律子を観察してそう
思った。


目がかすんで見えるといっても、日常生活に支障をきたすほどではないし、少なくとも走ることには何の問題もないだろう、いずれにしても一時的なものだろうし。

歩美は、医者におおげさな話し振りで何かふきこまれたであろう律子の心情を察して逆に同情したい気になった。


律子は椅子から立ち上がるなり、そわそわとせわしない動きをはじめた。

何かしないと落ち着かないとばかりにベッドの回りをうろつき、めくれた布団を直したり、棚の上の体温計をいじったりした。

ベッドに横になって檻の中のサルみたいにうろうろ動きまわる律子を歩美は不快な思いで見ていた。



昔、小学校の教師をしていたせいか、物腰はやわらかく言葉遣いも丁寧で、どことなく上品なイメージをかもし出している。

一方でしつけには厳しく歩美も箸の持ち方からあいさつのしかたにいたるまでこと細かく教え諭された。

そうした厳しい面と同じくらい寛容な部分を垣間見せ、そんな理解ある大人を演じているところが妙に鼻について歩美はあるときから律子に心のどこかで反発するようになっていた。

反発する理由のもうひとつに、律子の美佐江に対する異常とも思える子育ての方針があった。

美佐江も歩美と同じ一人っ子で、律子は美佐江に尋常ならぬ愛情を注いでいるのは歩美の目にも明らかだった。

それは孫の歩美でさえ嫌悪感を抱くこともあるほど過剰で、仰々しいものだった。

まるで自分の肉体の一部であるように、ともに喜び、ともに泣き、ともに子供みたいにはしゃぎ、ともに痛んだ。

律子は研究室で培養するように美佐江を大事に大事に育て上げ、その愛情に美佐江も難関進学校から有名女子大学、大手出版社というエリートコースを歩くことで応えてきた。

ただ応えてきたのは律子の愛情にではなく、労力と金銭面と、学校や交友関係といった家庭外におけるわずらわしいトラブルから身を呈して守ってくれたことに対する代償だと思っていた。

父親でさえ律子にとっては美佐江の視野から排除すべき対象になっていた。

鉄鋼メーカーの重役だった歩美の祖父である美佐江の父親も、そんな律子の態度をよしとしていたフシがあり、一見円満な家庭環境にあったように傍目から見えたが、しかしその極端な親子関係は「愛情は一方通行で与えられるもの」という偏狭な考え方を美佐江に植え付ける弊害も生んだ。

そしてその弊害の被害者である歩美がいつも愛情に飢餓感を覚えているのも当然の帰結といえた。



なによりもかわいがっていた美佐江が身籠ったとき、同じ血を分けた美佐江の分身にも相当の愛情を注ぐはずなのだが、なぜか律子の興味は歩美に及ぶことはなかった。

少なくとも歩美にはそう思えた。かわいがるどころか、嫌ってさえいるんじゃないか、そんなふうに思えてならなかった。

いつまでも自分の庇護下にあると思い込んでいた子供が、気づいたら人の親になり、自分の居場所がなくなっていた。

横取りしたのは夫の晴彦のはずなのだが、怒りの矛先は書類一枚でつながっている「真っ赤な他人」の晴彦には向かわず、一生美佐江の分身としてついてまわる歩美に向かっていった。

そんなふうに遠藤家を見ている歩美が自分の居場所を求めて絶望的な気持ちでいつもマンションの玄関を開けるのはある意味しかたのないことだった。
 

 





その日の夕刻、カニカンが恐る恐る病室に入ってきた。

その顔はまさに宿題を忘れて職員室に呼び出された生徒のそれだった。

ちょうど医者の検査が終わったところで、歩美はベッドに横になっていた。

「どうだ、具合は」

田所はドアの近くから歩美の顔をのぞきこみながら、円を描くように眉をつりあげ、気色の悪い裏返った声でいった。

その声を聞いて、歩美は思わず吹き出した。

そろそろ見舞いに来るだろうと思ってはいたが、先日のこともあってどんな顔で田所と応対すればいいのか、歩美はずっと悩んでいた。

そこへ、田所がまるで孫と対面するかのような間の抜けた顔で、的外れな声を出したものだから、歩美は拍子抜けしたと同時に田所もたぶん自分と同じように気まずい思いをしていたことが見て取れてほっとした。

「はい。すみません、なんだか」

歩美が口元に笑みを浮かべて照れくさそうに笑った顔から、一瞬田所が目をそらしたかのように見えて、歩美も思わず口元を締めたが、田所の次ぎの言葉でそれもすぐに元にもどった。

「バカか、おまえは。ほんとに無茶しやがって」

そういったところで、部屋の隅に座っていた律子と目が合い、バツ悪そうに頭をかきながら、

「まあ、なんというか、あれだ、とりあえずは無事でなによりだった」

といって後ろ手に隠していたコージーコーナーの箱を律子に差し出した。

そして丸椅子をベッドの近くに引き寄せて座り、静かな口調でいった。

「まあ、これもいい機会だ。ゆっくり休め。考えて見れば春からおまえは走りづめだったからな。いろいろおれも無茶いったし、そしておまえはそれに応えてくれた。プレッシャーもあっただろうに、そんなそぶりはおくびにも見せなかった。ま、それがおまえのいいところでもあり、悪いところでもあったんだろうが。でも、まあ、なんといったらいいか…」

田所は歩美から目をそらし、何かを探すかのようにふとんの上にしきりに視線を這わせたあと、歩美の目を正面から見据え、

「おまえには感謝している。本当に、ありがとう」

そういった。

歩美も微動だにせず、田所の目を見つめた。

わずか0コンマ数秒のことだったが、田所には気の遠くなるような時間が経過した気がした。

田所がガマンできずに口を開きかけたとき、病室に幼い笑い声が響いた。

「ははははは、カニ、いや監督ったら、何をいいだすのかと思ったら。はははは。なんだか、もう、わたし死ぬみたいないいかたして。おっかしーですよー」

風船を目の前で割られたような顔をして固まっていた田所も、ようやく正気を取り戻したように満面に笑みを浮かべた。

「そ、そうだなあ、そうだよなあ。へんだよなあ。まあ、でも、あれだ、こんなときじゃないと、ほら、なかなかいいにくいだろ、なっ。でもな、いまいったことは、前から本当に思っていたことでな。いつかおまえにはお礼をいいたかったんだ。いなか高校の、つぶれかかった陸上部の、いつクビになるかわからんような監督の俺に脚光をあびさせてくれた。本当に感謝している」

「だって、監督、それは、それはわたしだって同じで。監督がわたしを見つけてくれたんです。わたしのほうこそ、感謝してもしきれないぐらいで」

ふたりのやりとりをこわごわと見守っていた律子が口をはさんだ。

「まあ、おいしそうなケーキだこと。いまお茶を淹れますから、どうぞ先生もお召しになっていってください」

田所は律子に頭をさげ、そして歩美の顔を見て小さく笑った。

「大会が近いのに、本当にすみませんでした。明日からまた一生懸命がんばります。こんどはちゃんということを聞きますから、だから」

「ダメだ」

田所が打って変わって恐ろしい形相で歩美を一喝した。

歩美はきょとんとした顔で田所を見つめた。

型通りのあいさつのつもりだった歩美には、田所の反応があまりにも唐突で意外だった。

「あ、いや…」

また田所自身も自分の思わず口をついて出た言葉に動揺を隠し切れなかった。

「いや、ほら、ぶつけたのはここだろ、だから、じっくり精密検査を受けてよーく調べてもらわんと」

自分の頭を指しながら、田所は平静を装ってそういった。

「だから、結果が出るまではとにかく安静にしていろ。いいな」

「…は、はい。でも、ぜんぜん大丈夫だと思います。自分の体だからよくわかります。まあ、監督がそういうなら練習は数日間は休みますが。それより監督、お願いがあるんですけど」

「なんだ」

「静岡の武岡高校に速い選手がいるって聞いたんですが。森本とかいう」

「それがどうした」

「過去のタイムを調べてもらいたいんです。テレビで見たんですがフォームがわたしと似てて。もしかして次のライバルになるかもって思って」

「ああ、ああ、森本だな、俺も知ってる。わかった。調べておく」

「すみません、あしたとか、もしわかったら教えてもらいたんですけど。練習休んでじっとしていてるのがイヤで。なにかやっていないと落ち着かなくて」

「そ、そうだな、そうだよな。わかった、記録を調べてみよう」

突然、律子が立ち上がった。

そしてお盆に急須を乗せ病室を出て行った。

ドアを閉める間際、一瞬田所に目配せしたように歩美には見えた。

「さて、そろそろ引き上げるか。あんまり長居すると病人さんに悪いからな」

『病人さん』にわざとアクセントをつけてそういうと、田所は立ち上がった。

田所が病室のドアを開けようとしたときだった

「監督」

田所が振り返ると歩美の表情が一変していた。

悪魔に見つめられているうような気がして、田所は一瞬身じろいだ。


2015年10月04日

山田バンビ『ひだまりの夏』-06

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自分のことなのに、自分でもよくわからない。

わたしはさっき確かにこの二本の足で走っていた。

誰よりも速く。

そうだ、誰よりも速かった。ぜったい。

カニカンは一本目も二本目もタイムを教えてくれなかったけど、ぜったい速かった。

うん。間違いない。

でも…。

実感がない。

なんでだろう。

なんで一生懸命走ったっていう実感がないんだろう。

ホントに速かったんだろうか。ホントにわたしはさっき走ったんだろうか。

無我夢中だったから。走ることに? 

うーん、なんだか、それは違うような気がする。

そういえば、走ることが目的じゃないんじゃないか、なんて、カニカンは言ってたっけ。いいじゃん、目的だろうがなかろうが、速く走れれば。





歩美はさっきゴールを突っきって激突しかけたコンクリートの壁を見やった。


ああ、もっと速く走りたいなあ。もっともっと速く。

でも、たぶん、自分は走れる。自信がある。

みんなをあっといわせてやるんだ。みんなを。



そのとき、ふいに歩美の頭の中に倫子とミユキの顔が浮かんだ。

最近練習続きで、ほとんど会う機会がなかった。気を使ってか電話もなかった。


会いたいなあ。元気かなあ。



会わなくなっていくらも時間はたっていないのに、歩美はもう何年も会っていないような気がしてなつかしがった。

彼女たちの次に浮かんだのがきりっと眉があがった桐嶋の顔だった。

姉のようでもあり、学校の先輩のようでもあり、イヤな自分と向き合っているようでもあり、とにかく自分という存在を真正面から受け止めてくれる人。

それからいつもニコリと笑って挨拶してくれるCDレンタルショップの金髪の店員の顔、中学校二年のときにいたずら半分で手をにぎった男の子の顔、歩美がテレビや雑誌に出るたびに自分の娘のように喜んでくれるお隣の巨漢のおばさん、そして…歩美はそこで強引に思考を停止し、立ち上がった。

両手でおしりをぱんぱんとはたいた。気分はよかった。

何年も前からのどに突き刺さって取れなかった魚の骨がようやく取れたような、生まれて始めて体験する安堵感に包まれていた。


田所が帰ったあとも誰ひとり歩美に近づいてくる部員はいなかった。

マネジャーの吉川でさえ、遠目からのぞきみるだけで、声をかけてくることはなかった。

みんなの目つきは動物園で珍しい生き物を見ているときのそれだった。

自分たちとは明らかに違う種類の人間を見る好奇のまなざしだった。

気軽に声をかけられないピンと張り詰めた緊張感が歩美の周りを支配していた。




日曜日の職員室は静まり返っていた。

生徒の嬌声が反響してわさわさしている平日とは対照的に、人間の体温を感じさせないお堂のようだった。

練習場として使っているスポーツセンターから帰ってきた田所は、一度も座ることなく誰もいない職員室をうろうろ動き回っていた。

状況を冷静に捉えようとすればするほど田所の胸は高鳴った。



あいつ、あいつめ、やりやがった、やりやがった。

なんてことだ。

いったい、いったい俺はどうすればいい? 

陸連にでも連絡すればいいのか。

いやいや、所詮は練習での出来事だ。

では来週の予選会を楽しみにしています、そういわれるのがオチだろう。

それにしても、あいつが、あいつが、ここまで走るとは。

しかしなんだって練習なんかで……田所は身震いが止まらなくなった。



少し落ち着こうと給湯室に行き湯のみにお湯だけを注いだ。
お茶を入れるつもりだったが、もはやそんなことも忘れて、田所はその場に立ったまま味気ないお湯をちびりちびり飲み込んだ。

突然何か思いついたように、三口ほど口をつけた湯飲みを流しに置き、小走りに自分の席にもどった。

陸上部の記録簿を開き、空欄に今日の日付と時間を書き入れた。

そしてポケットに入れっぱなしだったストップウォッチをガラス細工の工芸品でも扱うように慎重に抜き出し、机の上に置いた。

百分の一秒単位まで計測された無機質な線だけで構成されたタイムを、中腰になって、立ち上がって、いろんな角度から穴の開くほどながめまわしたあと、ペンを手に取り、そのタイムを記録簿に書き写した。



12秒30――




世界記録まであとコンマ一秒。

もちろん誤差はあるだろう、が、ここでは多少の誤差はそれほど問題ではなかった。

正確だろうが、不正確だろうが、世界新だろうが、歴代二位だろうが三位だろうが、今の田所には関係なかった。

どんなに正確に計測できたとしても、結局正式なタイムとして公表されることはないのだ。

それより歩美が世界記録保持者とほぼ同格のレベルで走れることがわかったことが、今は何よりも驚嘆すべき事実だった。

しかしそうはいっても、来週のインハイの予選大会で今日と同じぐらいのタイムを出せるかどうか、また獣が憑依したように地を這って走れるかどうか、そんな保障はどこにもなかった。

たぶん歩美にもわからないだろう。

だからこそ今日のタイムを、非公式な記録だとしても、書き記しておきたいと思ったのだ。

田所は開いた記録簿をひとしきり見つめたあと、静かに閉じて机の中にしまった。

そして立ち上がり窓際に歩いていった。

校庭には誰もいなかった。

真夏の太陽に熱せられた光の粒があたり一面に降りつもっていた。

まぶしく光る太陽光が校庭のグランドに乱反射し、田所の痺れた頭の中を撹乱した。

光に誘われるように田所は自分の分身をそこに解き放ちしばらくの間陽だまりと戯れていた。

そのとき、突然どこからともなく大きな歓声が沸き起こった。

歓声は凝縮されかたまりとなって校庭の真ん中で炸裂した。

これほどエネルギーに満ちた歓声を田所は聞いたことはなかった。

よくみると炸裂した場所にひとりの少女が立っている。

ほんの少し恥じらいを見せながら、歩美はいつのまにかびっしりと校庭の周りを埋め尽くしている大観衆に向かって小さく手を振った。

手を振りながら歩美は心細そうに首を回し、誰かを探している。


「いかなければ。あそこに。歩美が呼んでいる。俺もあそこに立つ資格があるんだ」


田所は思わず右足を前に踏み出した。

窓を超えようとしたその右足はむなしく窓の下のモルタル壁にぶつかった。

ようやく田所は我に返った。

田所の心臓は高鳴っていた。

大量の血液を送り出す音が職員室中に響いてきそうだった。

額にうっすらと汗が張りついているのが、田所にもわかった。

頭を左右に二、三回振り、また自分の席にもどってきた。

そしてさっき片付けたばかりの記録簿を取り出し、バカ丁寧に書き記したわずか四桁の数値を今度は冷静にながめた。


田所は急に可笑しくなってきた。

可笑しくなったような気がして、意識的に鼻を鳴らして笑ってみた。

しかしそのわざとらしさがかえって現実を際立たせ、田所から冷静さを失わせた。

やけくそになってもう一度鼻で笑ってみたが、笑うどころか涙がこみあげてきた。


「いったいどうしたっていうんだ、俺は」。


押さえがきかない感情の高ぶりに翻弄され、次第に頭の芯が痺れてきた。

田所の感情を突き動かしている一番の元凶は「不安」だった。それは田所にもよくわかっていた。

実感がともなわない不安、ドラマチックな歴史の立会人が自分でいいのかという不安、そしてさっき出したタイムが幻に終わってしまうんじゃないかという漠然とした不安。

数ヶ月前に突然「翼」を手に入れて飛んではみたものの「翼」をうまく制御できずとまどっている歩美と同じく、田所もまた未知の力を秘めた「遠藤歩美」という最強のスプリンターを前にしてとまどいを隠せなかった。

たぶんもう一度、牙を剥き出した歩美の野性的なギャロップを目の当たりにすればすべて納得できるのだろう、田所はそう思ったが、なぜかそれは叶わない夢で終わりそうな気がしてならなかった。

野性的であるがゆえに自制することの難しさを、田所は歩美が最後に見せた口元の笑みに感じとっていた。






どうやって帰ってきたのか、歩美は上品な白壁のマンションのエントランスに立っていた。

歩美たちが越してきてからもう五年もたつが、三棟並んで立つ瀟洒なデザインのこれらのマンションは依然として周囲の町並みになじむことなく孤立していた。

入居している住人もどことなくよそよそしく、コミュニティを作ることに何の興味もないといった感じだった。

エレベーターに乗り込み八階のボタンを押した。

歩美は田所が帰ったあと、放心状態のままあとを追うように帰ってきたらしかった。

それでも今ではだいぶ熱は冷めていた。熱が冷めるのと同時に全身に不思議な力がみなぎってきた。


今なら、世界中のスプリンターと対戦しても勝つ自信がある、歩美ははっきりそう自覚した。

歩美はいても立ってもいられなくなり、狭いエレベーターの中を所在無く歩き回った。

歩くたびに血が巡り、顔がほてった。


――あっそうだ、今日は土曜日だ。


歩美は脈絡もなく突然思い出し、ようやく体の動きを止めた。

出版社は休みだから原稿に追われているママも今日は家でのんびりしているだろう。

もしかするとパパも家にいるかもしれない。

確か月始めは家にいることが多かったはずだ。歩美は二人の顔を思い浮かべた。

一瞬細い針で心臓を刺されたような痛みを胸に感じた。

ここ最近、家族三人が顔を合わすことはなかった。


もし二人揃って家にいたらなんだかめんどくさいなあ、歩美は声に出してそう言ってみた。

練習のこととか予選会のこととか、晩ごはんの話のネタにいろいろ根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。

そうだ、きょうのことは黙っておこう。

いまの調子でいけば今週の予選会では間違いなく好タイムを出せる自信がある。そのときに驚けばいい。

「歩美、あんた先週の練習でもすごかったらしいじゃない、どうして黙ってたの」そんなふうにママは怒るだろうか。

いいや、別に。私には関係ない。今まで何の興味も示さなかったあの人たちが悪いんだ。


八階につきエレベーターのドアが開いた。

何号室の住人なのか、二十歳ぐらいの大学生らしいカップルが蛸のようにお互いに絡みつき、歩美の脇をすり抜けた。歩美は軽く会釈しエレベーターを降りた。

八階の通路には黄色い西日が突き刺さり、足元にできた濃厚な闇と強烈なコントラストを作っていた。

まぶしいのと足元が見えないのとで、歩美はひざ下まで水につかった川を歩いているような気がした。

暗闇が足にまとわりついているようで歩きにくかった。

黄色い光がびっしりと張りついた玄関のドアを開けると、太陽を背に受けた歩美の長い影が廊下の突き当たりまで伸びた。

「ただいま」

歩美の声にすぐに反応したのは、美佐江の母の律子だった。

「おかえり。おなかすいたでしょ」

「おばあちゃん、来てたんだ。ママは?」

歩美はそういって美佐江の書斎に人の気配がないことに気づき、一瞬口の中がざらついた感じがした。

「ママはね、急にお仕事が入ったっていってねあたしに電話が来たのよ。えーと、盛岡だったかね。取材に行かなくちゃいけなくなったとかって。あ、泊まってるとこの電話番号は聞いておいたよ。それで、もうご飯にするかい?」

「ふーんいないんだ。どうせパパも帰り遅いだろうし。で、おばあちゃん今日は泊まっていくの?」

歩美は意味もなくテーブルの上にあった新聞の折り込みチラシを広げた。

「そのつもりで来たよ。それにしてもあんたのママも忙しいわね。急に出張だなんて。あれ、それでパパはイギリス行ったんじゃないの。ママはそんなこといってたけど。あなたママから聞いてない?」

律子の言葉に歩美は肺をワシずかみにされたような息苦しさを感じた。

「ああ、そういえばそんなこといってたかなあ。忘れちゃった」

律子は歩美の頬に紅いまだら模様が浮き出たを見た気がしたが、あまり気には留めなかった。

律子はまだ最初の質問に歩美が答えていないことに少し苛立ちながら、念を押すようにもう一度聞いた。

「ねえ、歩美ちゃん、ごはんは? 食べるの、食べないの?」

歩美は律子に重い背中を押され、小さなため息とともに、

「うん、ちょっと疲れたから部屋にいる。用意できたら呼んで」

そういって、玄関横の自分の部屋に入っていった。

まるで使用人に対するようなぶっきらぼうな口調だったが、歩美はまったく気づいていなかった。

部屋にもどった歩美は勉強机にすわり、宿題を片付けようとカバンから教科書やノートを取り出した。

勉強するための用意が整うと両肘を机の上にのせた。

そのときから、食事の用意を終えた律子が呼びにくるまで歩美は指一本動かすことなく石のように固まっていた。

食卓にはカレイの煮付けやひじきやたらの芽のてんぷらなどといっしょに歩美の好物のピロシキも並んでいた。

好物といってもそれは歩美が小学生までの話で、中学生になると体型を気にするようになり、コレステロールの塊のようなピロシキは敬遠するようになった。

いかにも子供が好みそうなおやつというイメージも大人への脱皮をはかりたい年頃の歩美にはいやだった。

しかし律子が得意そうに作ってくれるのを見て、いつもいいだせずにいた。

両親のいない、律子とふたりだけの食卓に山のように積まれたピロシキを見ていると、歩美は急に小さい頃の自分にもどったような気がしてきた。

「あんたがまだこんなに小さかった頃は病気ばっかりしていつもあたしやおかあさんは心配しどうしだったけど、それが今じゃマラソンの選手なんだから、まったくわかんないもんだね」

「おばあちゃん、マラソンじゃなくてハードル。知ってる? ハードルって」

「ハードル?」

「走る距離ってね、百メートルぐらい」

「へえ、そうなの」

律子は急須にお湯を少し入れ、ゆっくり急須をふって自分の湯のみに入れた後、今度は急須にたっぷりお湯をいれ歩美の湯飲みにいたわるようにお茶を注いだ。

「それでね、今日ね練習ですごいタイムが出たんだよ。どのくらいだと思う?」

「えーと、おばあちゃんはあんまり詳しくないからねえ…」

「適当でいいから言ってみて、ねえねえ」

「うーんと、一分くらい」

「あはははは、それじゃ日が暮れちゃうよ。あのね、たぶん十三秒くらいだと思うんだ。監督は教えてくれなかったけど。たぶんそれくらいは出てたと思うな」

「へえ、そんなに速いのかい。それにしてもおかあさんもほんと、育てた甲斐があったってもんだよね」

律子は箸をとり、漬物をひとつかみし、口に入れた。箸をごはんが盛られていない空の茶碗の上に置いたとき、静まり返った部屋の中に仏壇のりんを鳴らしたような音が響いた。

その音は歩美の琴線に触れた。

「ママは…ママはあんまりわたしに興味ないみたい。わたしがテレビや雑誌に出てもほとんど見てないみたいだし…」

「そんなことあるわけないよ。お腹を痛めて産んだ娘に、しかも一人娘だよ、興味がないなんて。そんなこというもんじゃないよ。あんたを産んだときはそれはもう喜んでたんだよ。ちょっと仕事が忙しくてあんまり話しとかできないかもしれないけど。あのね、チャンスなんだと思うよ、今がね。あの子もがんばってきたんだから。歩美ちゃんも応援してあげなきゃね。ねえ、ピロシキもう食べないの? いっぱい作ったのに」

歩美はふいに席を立ち、テレビの上のリモコンを手に取って席にもどった。

そしてテレビに向かってリモコンを突き出し、スイッチを入れた。

「歩美ちゃん、ごはんのときはテレビ見ちゃだめってママ言ってなかった? ママがいないからってちゃんとしなくちゃ。もう子供じゃないんだから」

歩美はまた右腕をまっすぐ伸ばしリモコンのボリュームをどんどん上げていった。

バラエティ番組の司会者のお笑いタレントが張り上げた素っ頓狂な声が部屋中に反響した。

「ちょっと、歩美ちゃん、歩美ちゃんたら、音を下げなさい。何考えてんの、この子は」

リモコンを取り上げようとする律子に体をねじって抵抗し、ソファに向かってリモコンを放り投げた。

「いいかげんにしなさい」

律子は立ち上がり歩美を上からにらみつけた。

アフレコであろう観客の乾いた笑い声が律子の声を飲み込んだ。

頭を左右に振りながら律子がソファに向かって歩き出したスキに、歩美はピロシキをひとつつかみあげ、みそ汁の中にねじ込んだ。そして急いで自分の部屋に駆け込んだ。


歩美はベッドの上に倒れこんだ。

天井がものすごい速さでぐるぐる回っていた。

血管が切れそうな勢いで心臓が膨張と収縮を繰り返していた。

心臓を動かしているのは自律神経ではなくたぶん自分の意思なんだろうなあ、歩美は冷めた頭でぼんやりそう思った。

何にイラついているのか、歩美にはよくわからなかった。

とっくの昔に食べなくなったピロシキを無理やり食べさせられそうになったからだろうか。

慣れない律子の小言に癇癪を起こしたのだろうか。

そうではないことは歩美もうっすらとわかっていた。

わかっていながらそれを認めたくはなかった。



翌日の練習は午後からだったが、歩美は朝の七時にはもう家を出ていた。

昨日の今日でさすがに律子と顔をあわせるのが気まずかった。

律子には悪いことをしたと歩美は反省していた。

しかし殊勝な顔つきで律子に謝ろうという気持ちは起きなかった。

母親と対峙するときのような、べとついた生々しい緊迫感を祖母の律子に感じることはなく、律子には甘えてもいいんだという思いが歩美の心のどこかにあった。

律子も歩美に対しておぼろげながら何かを悟ったのか、いそいそと出かける歩美の背中に向けて「いってらっしゃい」と普段と同じ調子で言葉をかけて送り出した。

昨日のことであまり歩美を刺激しないようにしようという配慮が律子の物腰に見て取れた。



歩美は学校指定の紺のジャージに無地のTシャツという飾り気のないかっこうで自転車にまたがり、駅に向かった。

日曜日の早朝だけあって、通行人はほとんどいない。

空にはうろこ状の雲が階段のように連なっていた。

まだ少し夜気を含んだ風がほほに触れた。


四つ角のコンビニの前で信号待ちをしていたときだった。

歩美はふいに駅とは違う方向に自転車を漕ぎ出した。

それは自分の意思ではなく、気がついたら体が勝手に動きだしていた、そんな不思議な感覚だった。

「体」に自分の「意思」を預けるのは心地よかった。

平凡な生活から脱皮させたあともこれまでずっと自分を導いてくれた両脚が、また違う道へといざなっている、歩美は理解できない自分の行動をそんなふうに理解した。

それならそれでついていってあげよう、歩美はそう思った。


自転車は小高い丘を登る道に入った。

だらだらとしたつづら道を十分も登ると町はすっかり視界の下に降りていた。

ほんの少し強さを増した日差しが、歩美の額にうっすらと汗を這わせた。


坂道を上りきったところに小学校があった。

はじめてみる学校で、校名をみてもまったく覚えがなかった。

歩美は校門の前で自転車を止め、少し開いた門から校庭に足を踏み入れた。

校庭を囲う金網が、一望できる街並みをひし形に切り取っていた。

歩美は金網に額をつけ眼下に広がる景色をぼんやり見渡した。

駅周辺をのぞくと高い建物が意外に少なく、広いと思っていたこの街が手のひらに乗るくらいの広さしかないことにいま初めて気づき、歩美はなんだかおかしくなって少し笑った。


生暖かい風に乗ってどこからか子供の嬌声が聞こえた。

振り返ると、校庭の隅のジャングルジムで子供たちが数人遊んでいる。男の子三人、女の子二人。よく見ると仲良く遊んでいるのではなくなにやら言い争いをしているように見える。

歩美は彼らに気づかれないようにゆっくり近づいた。


「なに勝手に登ってんだよ」

「早く降りろよなー、ほらあ」

体格から察すると五年生ぐらい。そういいながら男の子のひとりがジャングルジムのてっぺんにいる女の子のひとりに、持っていたソフトボールを軽く投げつけた。

ボールは女の子の足に当たった。

女の子は怒るでもなし、黙って足をさすった。

ただ顔面は今にも泣き出しそうなほど真っ赤だった。


どうやらジャングルジムの取り合いをしているらしかった。

というより暇つぶしに女の子たちをいじめている、男子の少し笑みを含んだ表情から、そんなふうにも見えた。

歩美は一瞬、いじめを受けていた中学一年の自分の姿が重なり、胸がうずいた。

「ねえ、あんたたちさあ、だめだよ、女の子いじめちゃ」

すぐそばにいた歩美にたったいま気づいたとばかりに、男の子たちは一様に虚を衝かれた表情を歩美に向けた。

いちばん背が高くて太っている男の子がまるで値踏みするように歩美の全身をねめつけた。

「だってさあ、もうずっと前から待ってんのに、どかないからさあ、ねえ、おねえさん中学? 高校?」

まだ声変わりしてないのか、体格に似合わず小太りの男の子の声は甲高くてかわいかった。

「うっそばっか。あたしたちさっききたばっかだもん、ねー」

思わぬ助っ人の登場で心強くなったか、いままで黙っていた赤いワンピースの女の子がうつむいて固まったままの友達の肩を抱きながら反論してきた。

「そっちこそ、うっそだねーだろ。もう三十分はそこいるじゃん」

「よくいうよ、三十分もいないもん」

「じゃあ、何時何分何十秒にここに来たかいってみろよー。ほうらいえないだろ?」

「そんなのわかるわけないじゃん」

「出ました出ました、『わかるわけないじゃん』攻撃―。こいつさあ、都合が悪くなるとすぐわかるわけなくなるんだよな」

赤いワンピースの女の子はほっぺたをふくらませて、小太りの男子をにらみつけた。

明らかに鼻からからかうことが目的の男子たちのほうに分があった。

女の子たちには悪いが、歩美はそんな「他愛もない」やりとりをみているうちに、さっきまで胃がもたれたような不快な気持ちがゆっくりとおさまっていく気がした。

一瞬、どこからか汗をたっぷり吸ったランドセルの匂いが鼻腔を刺激した。

歩美はとっさに目をつぶり、倒れないように脚に力を入れた。

そして大きく深呼吸してまた、ゆっくり目をあけた。


「ねえキミたちさあ、勝負しない?」


最初に声をかけたときと同じように三人の男子が同時に歩美に目を向けた。

ジャングルジムのふたりの女の子もきょとんとした表情で歩美を見ている。

みんな黙って歩美の次の言葉を待っていた。



2015年09月27日

山田バンビ『ひだまりの夏』-05




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歩美を取り巻く環境は劇的に変化した。

桐嶋の書いた新聞記事がきっかけとなり、取材依頼が殺到した。ミユキが指摘した通り、歩美の功績はマスコミの興味をそそるのに十分なネタらしかった。

美佐江は家にかかってきた取材依頼の電話には「学校側に一任している」として、この件にかかわることを一切放棄した。

結局取材の窓口は田所が引き受けることになった。

ただ公式な記録を出したのがまだわずか一回きりだし、取材を受けるのはもう少し先でもいいのではないか、との田所の判断ですべてシャットアウトされた。


それでも近所のコンビニの店員や商店街の洋品店のおばさんや小学生までもがいかにも親しげに声をかけてきたりした。

中にはお菓子の詰め合わせなどをもってくる主婦もいて、美佐江をさらに閉口させた。

部活中も歩美の練習風景を一目見ようと絶えず人だかりができ、他の部からクレームが出る始末だった。


その騒ぎも数日後には沈静化し、歩美も練習に専念できるようになった。

しかし静かになったのは束の間で、三週間後には遠藤歩美の名前とそばかすいっぱいの顔は全国に広まることになった。

デビューから二回目の大会となった県高校総合体育大会で、歩美は自己ベストをさらに0.4秒も上回る13秒04をマークした。

これはもはや高校生のレベルではない。

この驚異的なタイムを出したのが、この春に陸上部に転部したばかりの新参者ということで、うわさを聞きつけて取材にきていた記者たちはこぞって「天才少女誕生」「スーパー高校生が日本陸上界に新風」「日本新も時間の問題」などとおおげさに書きたてた。

中には「『来年のオリンピックはまかせて!!』なんて赤面してしまうコメントといっしょに、これまたどこで撮ったのか歩美が指を二本カメラに向かって突き出した写真をデカデカと載せている新聞もある。

まるで別人のように白い歯を見せて笑っている自分の写真をまじまじと見て、歩美は困惑した。そばかすの中に小さくせり出した鼻は上を向き、目は一重で細く、くせ毛の髪はボーイッシュに刈り上げられている。

中学生といっても違和感はないほど、18歳のフェロモンはまったく感じられない。

同じ紙面に載っている女優やタレントと比べると商品価値はゼロ、どころかイメージダウンになるんじゃないかと心配するほどだ。



そんな歩美が今、時の人になっている。

学校でも目だない存在だった女子高生がある日突然才能を開花させ、映画の「マイフェアレディ」のヘップバーンのように、華麗に変身を遂げる。マスコミにとっては格好のネタなのだ。

読者は自分にそのストーリーを重ね合わせ、夢を見る。

容姿は平均以下のほうがいやみがなく、より一般大衆の心をつかみやすい。

歩美の困惑とは別にもう一人の歩美は勝手にいろんな衣装をまとい歩き始めていた。




歩美は授業を休みがちになった。

雑誌や新聞の取材が増え、練習風景を写真に撮りたいからと二時間ほどグランドに連れ出させれる。

地元のテレビ局からも出演依頼がたびたびあり、そんなときは拘束時間は半日に及ぶこともあった。

学校側も歩美をピーアールに利用しているフシがあり、取材にはやけに協力的だった。

歩美は場数をこなすうちに受け答えの要領を身につけ、記者がどんな答えを求めているのかを察知し、的確な答えを出せるまでに「成長」していた。



そんなある日、桐嶋から電話があった。

久しぶりに話がしたいという。

取材じゃないからといわれ、歩美も気楽な気持ちで会うことにした。

桐嶋と話すのははじめて取材を受けて以来だった。


待ち合わせした駅前の喫茶店に早めに行き、歩道に面した窓側の席に座って待っていると桐嶋が時間ぴったりに入ってきた。

淡いピンクのブラウスに白のジャケットが初夏の陽光を反射してまぶしかった。

桐嶋が運んできた外の空気の匂いに混じって漂ってくるかすかなコロンの匂いが大人の女の色香を感じさせた。

桐嶋は歩美の前の席に座るやいなや、
「染めたんだ。髪」
と、歩美の髪に視線を止めながらいった。

歩美は二週間ほど前に同世代に人気のあるティーンズ向けのファッション雑誌の取材を受けたのを機に茶髪にしていた。

「すみません、変ですか」

そんなことないわ、似合ってるわよ、桐嶋は姉が妹をほめるように目を細めて笑った。

ウエイトレスが注文を取りに来て、桐嶋はアップルティーを、歩美はトマトジュースを頼んだ。

一枚ガラスから差し込んでくる日差しが店内の白い壁にキラキラした光の玉をいくつもつくっていた。

「すごいわね、大活躍じゃない。わずか二ヵ月で華麗なる変身、ってとこね」

歩美は一瞬目を尖らせて桐嶋の目を見た。

「ごめんなさい、変な意味じゃなくて」

桐嶋は歩美の視線を捕らえたまま静かに笑いながら補足した。

「どう、練習はきつくない?」

「ええ。陸上に転向するまではバスケ部でそれなりに鍛えていましたから。最初は使ってなかった筋肉をかなり強引に痛めつけたので結構きついところもありましたけど、今はもうだいぶ慣れました」

「そう、まだ若いもんね」

桐嶋は歩美が薄っすらと化粧をしているのに気づいたが、それについては何もいわなかった。

「慣れたといえば取材の対応もだいぶ板についてきたわね。あ、これももちろん嫌味じゃなくてね。今じゃ同世代のオピニオンリーダーって感じだし。そうそう、この前ある雑誌で恋愛相談受けてたでしょ。何だったかなあ。確か片思いの女子高生からの相談で、男を追いかけるんじゃなくて、追いかけられるように自分を磨かなくちゃいけない、でも私は速いからまだ追いつかれたことはないけど、って。あれは面白かったわ」


「あれは…編集の方が勝手に作ったんです。でもそんなニュアンスのことはいったかもしれませんけど」

「いいのよ、演出は大事だから。でも本当にすごいわねよね。環境が劇的に変化したのに、あなたはしっかりそれに対応している。というより、いつかこうなる日がくることがわかってたみたい。ようやくあなた自身が才能あふれる自分の肉体を受容できる自信がついたってことかしら」

歩美はキョトンとしていた。

「一番最初に私が取材したとき、あなたはいったわよね。まだ夢のようで実感がわかないって。たぶん、あの頃は自分が自分でないような、そうね、自分の体だけがひとり歩きして意識が置いてきぼりを食っているような、そんな感じだったんじゃない?」


歩美はとっさに下を向いた。

いろんな取材を受けてきて、うっかり忘れていたが、歩美を最初に世間に知らしめたのは、他でもない目の前に座っている桐嶋だった。

右も左もわからないうちにステージに引っ張り出され、体が勝手にたたき出したタイムを自分自身で消化する余裕も体験を踏まえた知識もなく、ただオロオロしていた、歩美にとってのまさに転機の瞬間に桐嶋は立ち会っていたのだ。

歩美は急に恥ずかしくなり、今すぐに桐嶋の前から逃げ出したい衝動にかられた。

それを見透かしたように桐嶋は言葉を継いだ。

「もちろん、今のあなたは違うわ。自信に満ち溢れている。でもね、実は私はそれが心配なの」

歩美は桐嶋が何がいいたいのか真意を測りかねて、次の言葉を待った。

「あなたはあまりにもうまく順応しすぎている。普通ならもっともがいてしかるべきだと思うんだけど。それも短期間ならなおさらね。環境の変化にすぐに順応できるのも才能のひとつだといわれればそうかも知れないけど。なんていうのかなあ、まるであらかじめ設定された役柄を上手に演じる女優のような、っていったらいいのかしら。女優はうまく演じることが仕事で、うまく演じることで評価されるわけだけど、あなたは女優でもなんでもなくて、ひとりの人間、ひとりの女子高生なわけでしょ。みんなが期待している演技をあなたが忠実にこなしていく必要性はどこにもないの」


歩美はテーブルに乗せられた桐嶋のしなやかな指先を黙って見ていた。

「あなたはステージの上で必要以上に遠藤歩美を演じているような気がしてしかたないのよ。あ、だからってね、マスコミに出るのは控えなさいとかいってるんじゃないのよ。遠藤さん」

苗字を呼ばれたことで、歩美は学校の先生に注意されているような錯覚を覚えて急に桐嶋に反発したくなった。

「あの、要は走ることに専念しろってことですか。桐嶋さんはご存知ないかもしれませんけど、練習は毎日三時間みっちりしています。週末はほとんど一日中グランドや体育館で走りこみや基礎練習をしているんです。取材を受けたりテレビに出たりするのはそのわずかな合間を縫ってスケジューリングしているんです。そんなことを桐嶋さんに言われるなんて…」

桐嶋は窓に顔を向け春の陽光を顔いっぱいに受けてまぶしそうに目を細めた。

「わたしね、実はあなたが練習してるところ何度か見に行ってるのよ。今は担当が変わって違う記者があなたを追いかけているんだけど、わたしも時間があいたときに他の記者のじゃまにならないように様子を見てるの。やっぱり一番最初にあなたの名前を活字にしたこともあって気になるのね。そう、あなたがどんなに真剣に練習に打ち込んでるかは目を見ればわかるわ。眼輪筋に力がこもってて、なんだかキラキラ光ってる。特に走ってるときね。心の底から楽しんでるって感じ」


「そうそう、そうなんです。楽しいんですよ、ホントに」

歩美は弾けた声で合いの手を入れ、両手をテーブルに乗せて身を乗り出してきた。

「なんていうか、走ってるときシューズとグラウンドの間に空気がはさまってるっていうか、まるで雲の上を走ってるような感じがして、これがとっても気持ちよくて。踏んだ空気が足の裏を押してくれるというか。ハードルを飛んでるときなんかそのまま宙に浮いていきそうな気がして。それでそれで、気楽に走れる練習のときより本番のほうがよりそんな不思議な気持ちになるんですよね。何でだろう」

「そうね、オリンピックとかワールドカップとか大きなレースで自己ベストを出すことってよくあるものね。たくさんの人たちに見られているっていう緊張感がアドレナリンの分泌を促して能力の限界ギリギリまで、ううん、もしかすると限界を超えた神秘的な力が発揮されるのかもしれないわね」

「くわしいことはわからないけど、とにかくこのまま空を飛んでいければ気持ちいいだろうなあって思う。あー生きててよかったーって感じ」

「あははは、生きてて、かあ。でもそういうことって確かにあるわね。わたしもスクープ記事書いてるときなんてワープロ打ってる指が勝手に動くもの。記事の構成考える前に指が先走ってすらすらって原稿書いてる。あれは気持ちいいわね。あの感じを体験したくて仕事を続けているようなところってあるわね。たぶんアスリートも同じだと思うの。自分のベストタイムを超えた瞬間って体のひとつひとつの組織がひとつの目標に向かって完全燃焼してるときじゃないかしら」


桐嶋の話を聞いている歩美の顔はいつしかあどけない18歳のそれになっていた。

歩美の心が透けてきたのを見て取ると、桐嶋は顔の向きを変えて話を本題にもどした。

「ただなかなかそういう気持ちいいことって長くは続かないのよね。才能とその才能を引き出す能力と運が必要だと思うの。その三つが自分の頭の上でうまく交わることって一生に数回ぐらいしかめぐって来ない。そのバランスが崩れたとき、人はスランプに陥る。逆にいえば能力が高ければ高いほどスランプは頻繁にやってくる。そのスランプと上手につきあっていけるひとだけが一流と呼ばれる資格をもってるの」


タイムも技術も体力も右肩上がりの今の歩美には正直スランプといわれてもピンとこない。

桐嶋はいったい何を自分にいいたいのだろう、歩美は桐嶋の真意が結局わからなかった。

要はこれから先も今まで通り順風満帆にいくという保証はないから今のうちにスランプになったときの対処方法を考えておけということなのか。

もしそうだとしたらそれは無理な話だ。

そこまで気を回せるほど自分は器用じゃない。

ただひとつだけ、歩美が確信しているのが、歩美のモチベーションを支えている見えない糸がぷっつりと切れたとき、そのときは操り人形のようにあっけなく崩れ落ちていくだろうということだ。その糸を引っ張っているのがいったい何なのか、歩美にはわからなかった。

そして、桐嶋が心の隅に引っかかっていることも、まさにそのあやふやな部分だった。

スーパールーキー遠藤歩美の誰も知らないアキレス腱を、桐嶋は本能的に見抜き、歩美は本能的のそれを覆い隠そうとしていた。





南棟のマンションが作る長い影が、歩美の住んでいるマンションに重くのしかかっていた。

歩美は無人のエレベーターに乗り込み八階のボタンを押した。

エレベーターはゆっくり上昇し、重力が歩美の心をも押えつけるような気がした。

八階に近づくにつれて動きが緩慢になっていくような錯覚を覚え、歩美はいらだった。



エレベーターを降り、通路を歩きながら歩美は桐嶋が別れ際にいった言葉を思い出していた。

「すべての行動にはね、目的があるものなの。あなたはなぜ走るのか、たぶんその答えにわたしがいいたかったことが隠されているような気がするわ」

歩美は思わず口元をゆるめた。


なぜ走るのか、なんて頭のいい新聞記者さんっぽいな。

そんな大層な疑問を持ちながら走れるわけないじゃん。


歩美は頭を少しかしげながら足もとを見つめた。



翌日の日曜日は、翌週に迫ったインターハイ予選会に向けた最終仕上げのために午前中からびっしりと練習のメニューが組まれていた。

集合時間は午後十時だったが、歩美は九時にはすでに着替えも終わってグランドに出ていた。

体のリズムと体調の波長がうまくリンクし気が乗っていた。

少しでも早く練習をしたくてうずうずしていた。

陸上部の部員が集まってくるころには歩美はウォーミングアップを終え、いつでもエンジンを全開にでき態勢にあった。

十時きっかりに現れた田所はマネジャーの吉川と打ち合わせをしながら、額にうっすらと汗をかいている歩美を盗み見ていた。



歩美はひそかに今週末の予選会に賭けていた。

そもそも予選会はインターハイに向けたステップにすぎず、本選出場がほぼ確定している歩美にとってはウォーミングアップ程度のはずだった。

むしろ無理をして体をこわさないよう気をつけなければならないぐらいのものだ。

にもかかわらず、歩美は今週末に照準を絞りボルテージを高めていた。



歩美は予選会で日本新を出すつもりでいた。

もちろん華々しい記録を残すなら本番のほうがいいに決まっているのだが、歩美にとってはインターハイも予選会もそれほど違いはなかった。

記録を出すなら早いほうがいい、歩美は気持ちの高ぶりを勝手にそう解釈していた。

自分で意識することはなかったが、歩美は間違いなく焦っていた。まるでタイムリミットが近づいているかのように、誰よりも速く走らなければ自分が消えてなくなってしまうかのように。

体中の筋肉が、本能の指し示す到達点に向かって勝手に弛緩し、緊張していた。



予選会に出場するのは歩美を含めて五名いた。

百mハードルには歩美ともうひとり二年の部員が出場することになっていた。

日本中の期待を背負った歩美は他の選手とは別の特別メニューが組まれた。

午前中は走りこみに徹してみっちり汗をかき、十分体をほぐしたあとで午後から単独と他の部員と併走する実戦形式でのタイムトライアルをこなすことになっていた。

といっても速いタイムを出すための練習ではなく、本選出場が果たせる最低ラインのタイムを体に覚えこませることが目的だった。


田所は気が気じゃなかった。

自分の不注意でもし予選会ごときでオーバーペースに陥って怪我でもされたら日本陸連や全国の歩美ファン、それから歩美をお茶の間のアイドルとしてあざとく視聴率稼きに利用いているマスコミから袋叩きに合うのは目に見えていた。

「わかってるな、遠藤。とにかく最初は軽く流せ。そのつどタイムを知らせるから。それから少しずつペースをあげていくんだ。いいな、少しずつだぞ」

田所は子供に説き伏せるようにゆっくりした口調で言い聞かせた。

まるで高価な精密機械を操作する技術者のように田所は細心の注意を払って歩美に接していた。

歩美は「はい」とだけいって、めんどうくさそうに二回首を縦にふった。

間延びした返事とは裏腹に、大きく開いた全身の毛穴から機関車の蒸気のような熱気が噴出しているのを田所に察知されやしないかと、歩美は内心びくびくしていた。


右肩を後ろに回しながら部員たちの輪から離れていった歩美の後ろ姿を見つめながら、田所は今になって少し後悔していた。


一ヵ月ほど前のことだ。

日本陸連から学校側にある打診があった。

歩美を日本を代表するスプリントハードルのスペシャリストとして育成するために、ベテランコーチを派遣させてほしいというのだ。

日本代表クラスの選手をコーチングするのに経験が浅い田所では荷が重いだろうというのが陸上界のお偉方のいつわざる本音だった。

話はすぐに田所に伝えられた。

何の躊躇もなかったといえばうそになるが、自分が身を引くことがゆくゆくは自分にとっても得策なのではないか、というよりそもそも自分には選択肢などはないのだという結論にいたり、その旨を学校側に伝えた。

校長は気の毒そうに歩美を発掘した田所の功績をたたえながらも、遠藤歩美の将来を考えれば今ここで手放すのはいたしかたないだろうと、田所をやんわり懐柔した。

もちろん、ここで陸連に恩を売っておいて損はないという校長の思惑は透けて見えていた。

しかしそもそも田所には陸連の要請を突っぱねる自信がなかった。

やれといわれれば全力を尽くす覚悟はあるが、必ず結果を出せるかと問われれば、経験が乏しい田所は両手をあげるしかなかった。

田所の野心など、何の問題にもならなかった。



結局、話はあっというまにまとまった。

陸連に正式に要請する前に歩美に状況を説明しておこうということになり、田所が直接歩美に伝えることになった。

田所は放課後部活の練習が始まる前に歩美を部室に呼び出した。

歩美は終始うつむいて田所の話を黙って聞いていた。

田所は自分でしゃべりながら少し感傷的になり、
「まあ、そういうわけだ。おまえは余計なことを考えずにただ記録を出すことだけに集中すればいい。俺もできる限りフォローする。いいな」

と、なかば自嘲気味にうっすらと笑みを浮かべながら話をまとめた。

田所の話が終わったと見ると、それまで神妙な面持ちで話を聞いていた歩美は少し傾けた顔をあげ、田所の顔を正面から見据えた。

そして、
「わかりました。それではわたしもやめます」

といった。

歩美の口元にもほんのわずか笑みが浮かんでいた。

ただ田所と違って口調はやわらかく、そして自信にあふれていた。

歩美はそれきり何もしゃべらず、いたずらが見つかった子供のようにはにかんだ笑いを浮かべていた。

表情は太陽の光を浴びたひまわりのようにやわらかかったが、眼だけは筋肉がひき絞られ田所の眼球を射抜いていた。

田所は歩美の静かな気迫に圧倒され、もうそれ以上言葉が見つからなかった。



その後、歩美は教頭、校長に直談判し、自分の意見をゴリ押しした。

ゴリ押しというより脅しに近かった。

教頭も校長も説き伏せるだけの材料を持ち合わせていなかった。

翌日校長から丁重な断りの連絡を受けた陸連は面目をつぶされた感じだったが、これ以上もめてもいい結果は生まれないだろうという判断から、結局田所を陸連に研修に出してもらうことで落ち着いた。



今にして思えばなぜ歩美があそこまでかたくなな態度を取ったのか、田所にはわかるような気がした。

もちろん自分への恩義もあったとは思うが、今さら見ず知らずの人間に自分の才能をいじりまわされ、好き勝手に操られ、最後に取り上げられてしまうのがいやだったんじゃないか、俺のコーチなら自分のリズムに合わせてトレーニングできるし、何より自分の才能を自分だけで独占できる。

田所は少なからず歩美と行動をともにしてきて、歩美の心を形作る輪郭程度は把握しているつもりだった。

自己主張が強く利己的な側面を従順な態度と頭のいいしゃべり方でうまくカモフラージュしている。

急ごしらえの大人の仮面の隙間からは幼い表情がたびたび見え隠れし、それが逆に相手に好感を抱かせる。

ひとつ気になるのは、まるで赤ん坊のような無垢で繊細でデリケートな一面を垣間見せるときがあることだ。

感受性が豊かなのは結構なことだが、思春期に傷みやすい感覚がむき出しになったとき、一歩間違えれば致命的な傷を負うことがある。

中学生の娘をもつ父親としての田所の父性が、警戒心を呼び覚ます。

そんなガラス細工の幼い感覚が強靭な筋肉の内側にびっしり詰まっているのだとしたら、もしそれが何かのはずみで一気にあふれ出したりしたら…果たして自分に彼女をコントロールできるだろうか。

いつの間にか輪の中から抜け出し、準備運動に没頭している歩美の姿を目で追いながら、田所は説明のつかない胸騒ぎを覚えていた。




午前の走りこみでほとんどの部員がバテてしまった中で、歩美のリズミカルな呼吸が乱れることはなかった。

昼食をはさみ午後の練習が始まった。

軽いストレッチを終えたところで田所が歩美に声をかけた。


「遠藤、準備はどうだ。とりあえず一本いってみるか」

「はい、お願いします」

歩美は太ももを胸まであげて交互にねじりながら、第三コースのスタートラインにつき、はいていたジャージを脱いだ。

第三コースは歩美が陸上部の入部テストではじめて走ったコースだった。

腰を降ろしお尻をかかとに乗せると、目の前にむき出しになったパンと張った太ももを交互に軽く叩いた。

コースの中ほどから田所の大きな声が飛んできた。

「どうする、最初からタイム、計るか?」

「はーい、お願いしまーす」

歩美も大声で返す。


ゆっくり顔をあげる。

目の先に連なる白いバーが波頭のようにゆれている。

一瞬、海の匂いがした。

歩美はそう思った。

「準備、できたら、手をあげろ」

田所が言い終わらないうちに、歩美は右手を高くあげた。

笛が鳴る。

スターティングブロックを蹴る。蹴り出した足がバネで引き戻したように勢いよくもどってくる。

太ももが跳ね上がる。

全身の筋肉が潤滑油を流し込んだようになめらかに動き回る。

すべての動作は完璧にチューニングされたエンジンのように、寸分の狂いもなく動力を百パーセント地面に伝えていた。


五本目のバーを飛んだとき急に頭がしびれ始めた。

あの陶酔感がまたやってきた。

呼吸や疲れや痛みや両親の顔や田所の細い目や年齢やインターハイや夢や記憶なんかが体中から流れ出し、一歩踏み出すごとに体がどんどん軽くなっていくような気がした。

視線はゴールの、もっともっとずっと先を見据えている。 



いける、いける、いける、いける、もっと、もっと、もっと速く、いきたい、いきたい、いきたいどこまでも、どこまでも飛んで飛んで飛んで飛んで──。




ゴールを過ぎても歩美の目は牙をむいていた。

体中からほとばしるエネルギーを自分で制御できないといった感じでまるで檻の中の動物のように右に左に動き回った。

ストップウォッチを握り締めた田所が血相を変えて走り寄ってきた。

鬼の形相をした顔に似合わない内股が、かえって恐怖感を助長した。

「遠藤、おまえ」

田所の声は別人のように変な張りがあった。

「何考えてんだ。気は確かか」

田所の怒鳴り声は単語すべてに強いアクセントがついていた。

「まだ、一本目だぞ。勝手につぶれる気か。俺がさっきいったことを忘れたわけじゃないだろうな。頭に乗るな」

田所は一生懸命自分で乱した息を整えようとしていた。歩美に翻弄されている田所が、滑稽にもあわれにも見えた。

田所は今度は息を落ち着けて故意に静かな口調でいった。

「わかったか」

今にも壊れそうな田所とは対照的に歩美は落ち着き払っていた。

「すみません。あのそれで、今のタイムは?」

「わかったのかって聞いてるんだ」

田所の目は赤く充血していた。

「はい」


歩美の小さな返事を聞くなり、田所は歩美に背を向け、ゴールラインにもどっていった。

歩美は田所の心中を察するほど大人になりきれていなかった。

また、いまはそんな余裕もなかった。

「もう一本だ」

背を向けたままの田所の太く低い声を合図に歩美はスタートラインにもどっていった。

たぶん、今のタイムはかなり速かった、歩美は確かな感触をつかんでいた。

田所がタイムを教えてくれなかったのがその証拠だ。

13秒03、04あたりか。

もしかすると自己ベストを更新していた? いやまさかそこまでは…。


決してタイムを意識したわけじゃなかった。

それは間違いない。

全力で走ったわけじゃないのに、あんなにカニカンが激怒するなんて。

そこまで考えたところで、歩美の体の中から数十の、いや数百の、数千の、数万、数億、数兆の雄たけびが聞こえたような気がした。

火山から吹き出たマグマのように歩美の血は沸騰していた。外部に開かれていた耳は遮断され、体内の音にのみ集中していた。



わかってるわかってる、いくよ、いくよ。



歩美の声は体内にこだました。

歩美の殺気は周辺の空気をねじまげ、まるで結界が張られたように空気が緊張した。

歩美の異常な雰囲気を察知した田所が遠くから大声で歩美を呼んだ。

「おーいっ、遠藤ぉー、エ・ン・ドー」

その声はまさに今、崖から飛び降りようとしている少女に向かって発せられた絶望的なそして悲痛な叫びに似ていた。

田所の普通じゃない声に驚いた他の部員たちが一斉に田所に視線を集めた。

そんな悲痛な声も歩美には風の鳴る音と変わらなかった。

体内に満ちた羊水につっぷりと身を浸し、体中にこだまする甲高い叫び声を静かに聞いていた。



歩美はコースに背を向け目を閉じた。

誰もいない観客席では水色の作業服を着たやせた中年の女性が黙々と箒をさばいていた。

純粋ではないすべてのものを排出するように、歩美はゆっくりと大量の息を吐き出した。

そしてゆっくり体を回転させ、線路の枕木のように並ぶバーを眺めた。

蜃気楼にようにてらてらと揺れ動く十本のバーが交差する先に今にも折れそうな葦のように不安定に立ち尽くす田所の姿があった。

田所は両手を口に当て何か大声で叫んでいた。

歩美はそんな田所を無視し指先をそろえて右手を空に向かって垂直に伸ばした。

田所は首を左右に振り、あきらめたようにストップウォッチを握り締めた。  


 
スターティングブロックに足を固定する。

腰を何度となく上下させ、かかとにのせる。

親指と人差し指を神経質に動かし白線の内側でポジションを探す。

そして寄木細工のようにすべてが完璧に型にはまった瞬間、歩美はスタートライン前方三十センチに視線を置いたまま石のように固まった。

呼吸まで止まってしまったようだった。


スターター役のマネジャーの吉川は第三コースにひとり息を潜めてしゃがんでいる歩美が別の生き物のように思えてしかたなかった。

自分が笛を吹いた瞬間、たちまち猛獣に豹変し襲いかかってくるんじゃないか、そんな気がしてこわかった。ふるえる指で笛をつかみ、口に近づけた。

「い、位置について」

吉川の声にも歩美はまだ何の反応も見せなかった。

吉川は「ヨーイ」という掛け声で右手を高くあげ、きっかり三秒後に笛を吹いた。

笛の音は一直線に空を突き抜けた。


笛の音と同時に歩美は筋肉のストッパーをはずした。

次の瞬間、ゴムで弾き飛ばされたように体が前に飛び出す。

利き脚でオールウェザーのグランドを蹴る。足の裏のN極とグランドに埋め込まれたN極が反発しあうように、歩美の足がめり込んだグランドが力学の法則を無視して跳ね返す。

大腿骨、ヒ骨、頚骨に張りついた大腿四頭筋、大腿二頭筋、縫工筋、内転筋群、前脛骨筋、腓腹筋、ヒラメ筋、長腓骨筋、ありとあらゆる筋肉がギリギリと引き絞られる。

一本目のハードルが近づく。

右足を伸ばし、泳ぐように腕で宙をかく。

右足を着地させると同時に翼のように開いていた左足を畳み込む。

一連の動作はまばたきほどの時間もかからない。

体はグングン加速する。

少しずつ頭がしびれはじめ、意識が体を遊離していく。

自分の体なのに、自分のものでないような、大草原を疾駆するチーターに自分の頭だけがのっかっているような、心地よい爽快感がじわじわと意識のすみずみまで満たしていく。


歩美の口元が妖しくゆがむ。

三本、四本、五本、もはやバーは障害物ではなく、スピードを増すための装置だった。



七本目のバーを越えたときだった。

一瞬にしてスイッチが切り替わり、意識が「暗転」した。

開かれたものとは逆の急激に閉じていく世界、ブラックホールに向かって吸い込まれていくような、自分の体が小さくなって押しつぶされそうな焦燥感が襲ってきた。

ずっとはるかかなたに点のような出口が見える。

その点はまぶしく、温かそうに思えた。




早く、一秒でも早くあそこから外へ出たい、あの光にふれてみたい。



歩美の思いに体が即座に反応し、重心がぐっと沈みこんだ。

信じられないことに、スピードが一段と増した。

少なくとも田所にはそう見えた。

全力疾走している人間がゴール前でさらにスピードをあげるなんて常識では考えられない。

しかし、歩美は確かに二段目のロケットに点火したかのように加速した。

これからが本番だとでもいわんばかりに。田所は汗が噴き出した手のひらでストップウォッチを慎重に握りなおした。

今、とんでもないことが目の前で繰り広げられている、田所は一瞬一秒を永久に脳裏に焼きつけようと、地を這うように疾駆する歩美の姿を必死に追った。


ゴールの白線は、歩美にはなんの意味もなかった。

まるで歩美が見ているゴールはまだ数百メートル先にあるかのように、ゴールを過ぎてもスピードはまったく落ちなかった。

それどころか青い血管が浮き出た首を獣のようにぐっと前に突き出して走っている歩美を見ているとまだトップスピードにも達していないんじゃないか、そんな錯覚さえ覚えた。突然、観客席下のコンクリートの壁が目の前に出現し行く手をさえぎった。


歩美はスピードを落とすまもなくひんやりしたコンクリートの打ちっぱなしに両手を突き出し、かろうじて体を止めた。

歩美はしばらく呆然として、見るべきものを探すように視線をあたりに泳がせた。

少しずつ息を整えながら、はるか後方に過ぎ去ったゴールを見て状況を把握した。



結局、歩美は「出口」にはたどり着けなかった。

たどり着けなかったが、いつか、小さな点にしか見えなった「出口」から外へ出られるんだというはっきりした手ごたえを小刻みに震える両足に感じていた。

歩美は壁にもたれて小さく笑った。



ゴール近くでは、バラバラに練習していたはずの他の部員が一斉に集まり、田所を取り囲んでいた。

その輪の中心にいた田所は何か大声で怒鳴っている。

歩美は満たされた気持ちを十分に楽しんだあと、田所のもとに向かって歩き出した。

一方、こちらに向かって歩いてくる歩美の姿に気づいた田所は、腕につかまって必死に何か訴えている吉川を突き飛ばし、歩美に向かってまっすぐ歩き出した。

そして歩美の行く手をさえぎるように真正面に立ちふさがった。

口元に笑みを浮かべている歩美の顔をみた瞬間、田所は歩美と自分との間に悲しいほど冷たい壁ができたのを悟った。

かまわず田所は歩美の鼻先に顔を突き出し、つばと一緒に怒りを吐き出した。


「おまえは、おまえはな、これからひとりで走れ、いいか、ひとりでずぅーと気がすむまで走り続けろ。ひとりで走って走ってぶっつぶれてヘドを吐いて苦しんでのたうちまわれ」


田所は肩で大きく息をしながらわめき散らした。

「おまえは気づいていないだろうがな、おまえが走ってる姿は獣そのものだ。おまえは走っていて気持ちよかったか。俺は恐ろしくてしかたなかったぞ。獣の霊にでも取り憑かれたみたいにめちゃくちゃに走りやがって。俺はな、人が走っている姿を見て恐怖を感じたのは初めてだ。おい、聞いてんのか」


歩美は田所の話をうつろな表情で聞いていた。

こいつ本当に取り憑かれているんじゃないのか、歩美の放心した横顔を見て、田所はのど元からせりあがってきていた感情の高ぶりを少し冷静になって押し戻した。

「いつもいってるだろ、ランナーはな、本能だけで走っちゃいけないって。理性をフルに働かせて、体を自分の意思でコントロールしなくちゃいかんのだ。それができなきゃ記録なんて絶対伸びない。たぶん、今のおまえは自分をコントロールすることなんてできんだろう。おまえを見ているとどうも走ることが本当の目的じゃないんじゃないかって気がしてならん」

グランド横の体育館から歓声が上がった。歩美はうつろな目のまま体育館に顔を向けた。田所は大きなため息をひとつ吐いた。

「お前を追い立てているのがいったいなんなのか俺にはわからんし、たぶんおまえにもわからんだろう。でもそれがわかるまではおまえには走ってほしくない。それが今の俺の正直な気持ちだ」


田所は諭すような静かな口調でいった。そして手のひらに張りついたストップウォッチをズボンのジャージのポケットに手首ごとねじこみ、地下道へ通じるドアから出て行った。



歩美は放心していた。

田所が背を向けたと同時にその場にすわりこんだ。

ひざを抱え、田所の後姿をぼんやり眺めていた。

そして針のように脳みそに刺さった田所の言葉を一本一本抜きにかかった。






2015年09月17日

山田バンビ『ひだまりの夏』-04

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軽やかな足取りでバスのタラップを飛び降り小走りに走っていく。

おそろいのユニフォームを着た野球少年たちが嬌声を発しながら走り去っていく。

春の陽光を浴びて静かに呼吸している木々に囲まれた小道を抜け、マンションのエントランスにたどりつくと、そこには珍しく奥様方が五、六人集まっておしゃべりに興じていた。

日曜日ということもあり、中庭には子供たちと遊ぶお父さんたちの姿も見えた。

歩美は奥様方に軽く会釈をしてエレベーターに飛び乗った。



 今日の話を聞いたらお母さんどんな顔するだろう。

もちろん素直にほめてはくれないだろう。

「スポーツだけじゃなくて勉強にもそれぐらいの才能を発揮してほしいわね」ぐらいはいわれるかもしれない。

でもそのあとにそっと抱きしめてくれるはずだ。抱きしめてほしい。



歩美はただただ無性に母親のぬくもりに触れたかった。

美佐江とはここ最近ろくに会話もしていないのだが、今の歩美にはそんなことは取るに足らない些細なことのように思えた。



 八階の通路を小走りに駆け、ドアの鍵を開けるのももどかしく、歩美は家の中に飛び込んだ。

「お母さん、お母さん」

 歩美は一生懸命平静を装いつつ少し鼻にかけた声を出しながら玄関の左側にある美佐江の書斎のドアを開けた。

そこにはバックライトがついたノートパソコンがバカみたいに口を開けているだけで、美佐江の姿はなかった。

部屋のドアを閉め廊下の突き当たりにあるリビングのドアノブに手をかけた瞬間、冷たく張り詰めた気配を感じて思わず背筋に悪寒が走った。

 ドアの向こうからは美佐江のくぐもった声が聞こえてきた。

「どう考えたって勝手すぎるでしょ、そんな話。しかも突然いわれて、ハイそうですかって聞けるわけないでしょ」

「しかたないだろ、誰かがしばらく向こうに常駐しないとこのビジネスは成り立たないんだから」

 美佐江の口撃を受けているのは父親の真彦だった。

こんな時間に家にいるのはいつ以来だろうか。こんな時間に家にいるのが不似合いな真彦がそこにいるだけで、歩美は不吉な予感を感じた。

「だからってなんであなたなわけ? 三人で独立して作った会社なんだから三人でもっと話し合ってきめればいいでしょ」

「イギリスのエージェントと仕事をしたことがあるのは俺だけだし、日本の出版社とのコネクションは俺よりあとの二人のほうがいっぱいもってるんだよ。だいたい翻訳本のプロデュースは金になるっていったのはおまえだろ」

「いったけど、まさかあなたがイギリスに常駐するなんて思わなかったのよ。だいたい適齢期の子供をほっぽりだしてよくそんなとこ行けるわね。来年は受験だっていうのに」

 美佐江はアクセントを強めながらまくし立てた。

「そういえば今日は歩美いないな。どこいったんだ」

「知らないわよ」

「知らないって、お前も歩美にはほとんどノータッチじゃないか」

「あの子がどこいったかより今はあなたの行き先が問題なんでしょ。だいたいなんでいつもあなだだけ…。私だってニューヨーク行きの仕事があったのに泣く泣く断ったのよ」

「またその話か。だったらおまえも遠慮せずに行けばいいだろ」

 真彦は吐き捨てるようにそういうと、席を立った。

 歩美は反射的にドアから離れた。

そして音を立てないように自分の部屋に入ってドアを閉めた。

ドスドスと廊下を歩く音が今にも砕けそうな歩美の神経に響いた。

その音はそのまま玄関から出て行った。



 歩美はベッドにうつぶせにもぐりこみ頭から布団をかぶった。

心臓の激しい鼓動が布団の中に響き、あごがガクガクと震えた。両耳をふさぎ、目を思いっきり閉じた。

しばらくして震えは止まった。

止まったと同時に涙があふれてきた。

次から次へ、永遠に止まらないんじゃないかと思えるくらいに。

流れ出る涙は頬を伝って水玉模様の枕に沁みこんでいった。

嗚咽が漏れないように歩美は親指をぐっと噛んだ。しかし喉奥からせりあがってくる悲しみは止めようがなかった。




 いったいどれくらいの時間がたったのか、歩美には見当もつかなかった。

いつのまにかベッドで眠っていた。窓の外はすっかり日が暮れていた。

歩美は赤く腫上がった目を無造作にこすり、ベッドの上にあぐらをかいた。

今日は18年間生きてきた中で一番長い一日だったかもしれない。

歩美はふくらはぎのあたりを手でさすりながら、その長い長い一日を思い出していた。

歩美は今日の大会の模様を頭の中で一生懸命ふくらませていった。



大観衆の中スターティンググリッドに向かう。

突然拍手が沸き起こる。

ピストルがなる。

驚異的なスピードで他の選手をぐんぐん突き放す。

そして一着でゴール。

拍手は鳴り止まない。

笑顔で観衆に手を振る。



いつのまにか歩美はベッドの上に立ち上がっていた。


そうだ。
自分は今日新しい人生を手に入れたのだ。

それも自分だけの力で。

もういい。

自立しよう。

あの二人だって好き勝手に生きてるんだから、私もそうさせてもらう。



歩美は電気もつけず自分の学習机の前にすわった。


そうだ、今日のことも黙っておこう。

別に話したところでたいして興味も示さないだろう。

明日は二人と顔を合わさないように朝一番で学校へ行こう。



そのとき歩美は明日の家庭科の授業で宿題になっていた裁縫をまだやっていなかったことに気づいた。

あとで美佐江に教えてもらおうとして忘れていたのだ。

暗闇の中かばんの中から裁断された布を取り出したとき、また急に涙がこみ上げてきた。




翌日、朝の5時に起きた歩美は美佐江や真彦に気づかれないように6時前にはそっと家を出た。

少し後ろめたい気持ちもあったが、昨日の二人の会話を記憶の中から引っ張り出して、そんな気持ちをむりやりねじ伏せた。

学校に着くと校舎は朝焼けで真っ赤に燃えていた。

誰もいない教室に入りかばんをおき、そのまますぐに部室に向かった。

体操着に着替え、ハードルを三台倉庫から出しグランドのすみに並べた。

そして何度も何度も飛び続けた。

30分ほどすると登校してくる生徒たちが一人、二人とグランドを横切っていく。

どの生徒も一心不乱に練習している歩美を不思議そうに眺めていた。

そのうちの何人かは足を止め歩美のほうにじっと視線を向けてくる。

足を止める人数が増えてきてさすがに歩美も恥ずかしくなり、ハードルを片付けて教室にもどった。

教室には半分ぐらいの生徒が登校していて早くもヒヨコの巣状態になっていた。

教室の奥を見るとミユキが倫子の机の前に立って手を上下左右に動かしながら話をしていた。

その二人を目にしたとたん、歩美はピンと張り詰めていた全身の筋肉が急にゆるんでいくのを感じた。


歩美は教室に足を踏み入れた。

すると入り口付近で立ち話をしていた数人がほぼ同時に歩美に顔を向け、一様に媚びたようなはにかんだような不思議な顔をした。

早朝から自分に向けられる視線が気になっていた歩美は一瞬ぎょっととしたが、かまわず教室の奥に進んだ。

ところが歩美が奥に行くにしたがって、みんなの視線がどんどん絡みついてきた。


いったいどうしたんだろう。

ミユキや倫子以外には親しく口をきく友達がいない歩美は急に不安になってきた。

ちょうどそこへミユキが振り返りみんなの視線におぼれかけた歩美を救い出してくれた。


「おっ、ヒーローのご出勤だ」

ミユキはいつもの男の子が女の子をからかうような口調で歩美を迎え入れた。

「すごいねコレ。こんなに大きく出てるよ」

倫子が新聞を指差しながら少し興奮気味にいった。

狐につまられたような顔をしながら、歩美は事態を飲み込むために頭をフル回転させた。



そうか、桐嶋さんの書いた記事が掲載されたんだ。


朝一番に出てきた歩美は新聞のことなんかすっかり忘れていた。

「あ、ごめん。どんなふうに書いてあった? 今朝いろいろあって新聞読んでないの」

信じられない、というポーズを取りながらミユキは倫子から新聞を奪い取ってやじうまワイドのレポーターのように抑揚をつけながら声高に読み始めた。

「日本陸上界に新星現る。高校春季競技会で鮮烈デビュー」

ミユキはまずタイトルを読み上げたところで歩美に思いっきり顔を近づけた。

「えー、昨日県内の総合スポーツセンターで行われた高校春季競技会で、鷺ノ宮女子高校三年の遠藤歩美さんが百メートルハードル決勝で驚異的なタイムを叩き出した。遠藤さんの出したタイムは13秒08で、これは昨年開催された日本選手権でもベスト3に入る速さ。実は遠藤さんが陸上を始めたのはわずか一ヵ月前のことで、昨日の大会が事実上のデビュー戦。そこで超高校生級のタイムを出したことで、関係者も驚きの声をあげている。だって」


歩美はたまらずミユキの横から新聞を見た。

そこには大きな見出しとともに田所と並んで歩美がピースサインをしている写真が3段抜きで掲載されていた。

いくら地方版とはいえこの扱いは大きい。

歩美にはどうしてもそこに載っているのが自分だとは思えなかった。

「どうする、歩美。これからマスコミが殺到してくるぞ。そうだ、フォーカスされないように身辺整理しといたほうがいいな」

ミユキは腕を組んでしたり顔でいった。

まさか、これぐらいのことで。歩美はそう思ってはにかんだ。

「今まさかって思っただろ。甘い。だって考えてみなよ。普通の女子高生がある日突然自分の才能に目覚め華々しくデビュー。マスコミが好みそうなネタじゃないの」

「あたしもすごいと思ったよ。新聞読んで。なんだか歩美が遠くに行っちゃうような気がした」

倫子のゆっくりとしたしゃべり方が変なリアル感をもって迫ってきた。

歩美は困惑した。

しかしそれは好きな人に突然告白されて、うれしいくせにとりあえずその場をどうすればいいかわからない、そんな心地よい困惑だった。




その日、歩美は一日中窓の外ばかり眺めていた。

コバルトブルーの空をバックに混じりけのない真っ白い雲がゆっくりと形を変えて流れていく。

大歓声の中を颯爽と走り抜ける自分、街中を歩いていてみんなが振り返る自分、そばかすだらけの顔がドアップでテレビに映し出されている自分、あらゆる雑誌の表紙を飾っている自分、恋人と人目を忍んで楽しげにデートしている自分。歩美の頭の中は妄想ではちきれそうになった。



放課後の部活の練習が終わったころにはすでに夜の八時を回っていた。

歩美は自宅に帰りたくなかった。

美佐江と顔を合わせるのがいやだった。

といってこのまま帰らないわけにもいかないので、仕方なく腹をくくった。

美佐江の仕事部屋に明かりがともっているのを確認して、歩美はゆっくり深呼吸した。

そして自分で鍵を開けて中に入った。

いつもは鍵が開く金属音がしてもほとんど気づかないくせに、今日はめずらしく間髪を入れずに部屋から出てきた。


「あんた、いったいどうなってるの?」

歩美は美佐江の形相に一瞬たじろいだ。

「朝一番にお母さんの友達から電話があって、あんたが新聞に出てるっていうじゃない。それであわてて新聞見て、もうお母さん腰を抜かしそうになったわよ。それからは親戚やら田舎のおばあちゃんやらご近所さんからひっきりなしに電話が入って。それがひと段落したと思ったら今度はスポーツ新聞の記者やら雑誌の取材やらでもう一日中電話が鳴りっぱなしだったんだから」

大声で怒鳴っている美佐江の表情からは自分の娘の偉業をほめようという気はみじんも見られず、歩美は悲しいというより恐怖さえ感じた。

歩美は尋問を受ける犯罪者のように直立不動で玄関のドアに張りついていた。

「話を聞こうと朝あんたの部屋に入ったらもぬけの殻だし。まったく。どうしてお母さんに何もいわないの? あんたのおかげで私がどれだけ恥をかいたか」

怒ったときにだけ口に出る「あんた」という言葉を聞くたびに歩美は体中に針を突き立てられるような痛みを感じた。

「ごめ…、だって」

歩美はいろんな言葉がごっちゃになって結局なにも聞き取れなかった。

美佐江の脇をすり抜け自分の部屋に閉じこもった。



昨日と違って、今日は涙は出なかった。

歩美はカバンを手に持ったままベッドに座った。

美佐江は家にいることが多く、掃除や洗濯そして食事の準備もソツなくこなす。

そこまでは普通の主婦となんら変わらない。

ただ、彼女の場合、そうした家事をやる以外はほとんど奥の仕事部屋に閉じこもってパソコンに向かっていることた。

彼女の興味の対象の九十%以上は仕事であって、家の中にはそのかけらほどもなかった。

やるべきことはちゃんとやっている、だから…それ以外の時間は自分のために自由に使わせてもらう。

それが彼女の行動原理だった。

彼女にとって自分は手のかからないペットぐらいにしか思っていないのではないか、あるときを境に歩美はそう思うようになった。


中学二年のある日、突然いじめがはじまった。

クラス中の人間が一切口をきいてくれなくなった。

歩美の不用意な発言があるグループのリーダー格の生徒を怒らせたようだった。

もともと目立ちたがり屋の性格も歩美の知らないところで反感を買っていたのかもしれない。

いずれにしろいじめは何の前触れもなくはじまった。歩美は悩みに悩んだ。

そして思い切って美佐江に相談すると、美佐江は詳しい事情を聞くこともなく、その場ですぐに学校に電話し、担任に娘がいじめにあっているようなので対処してほしい、とだけ伝えてとっとと幕を引いてしまった。

歩美は美佐江が取った行動がよく理解できなかった。

これが大人の解決方法なのか。

それまで、なんでもテキパキとこなし仕事相手からも一目おかれていた美佐江を歩美は信頼しきっていた。

しかし美佐江は一番肝心の歩美の心の病を直そうとはせず、自分自身に降りかかった問題の解決をはかったにすぎなかったのだ。

もちろん親一人の力でいじめを解決するのは難しいかもしれない。

でもだからといって担任に電話を一本入れたぐらいで何が変わるというのか。



結局事態は何の変化も見せず、学年が変わるまでいじめは続いた。


歩美が意識的に美佐江と距離を置くようになったのは高校一年の時だった。

きっかけはある女性雑誌の取材だった。

そのころから美佐江はいろんな雑誌にエッセイを書いたりしてそれなりに名前は売れていた。

キャリアウーマンを目指す女性向けの企画の一環で、仕事と子育てを両立させている女性を代表して美佐江を取材したいということだった。

誌面にはインタビュー記事のほかに美佐江と歩美のツーショット写真を掲載することになり、撮影場所として近くのデパートが選ばれた。

仲のいい親子を演出するために一緒にショッピングを楽しんでいる風景を撮るということだっだ。


歩美の服を選ぶという設定で撮影がはじまった。

美佐江は水玉のワンピースを歩美の背中にあてて「いいじゃない」などといいながら、終始笑顔を絶やさなかった。

そんな美佐江を見て歩美は困惑した、というより怖かった。

どうしても目の前にいるのが自分の母親だとは思えなかったのだ。

今までこんなふうに二人でショッピングを楽しんだことがあっただろうか。

そもそも二人で心の底から楽しんで何かをしたという記憶がほとんどなかった。

美佐江に合わせて仲のいい親子を演じながら、歩美は美佐江との間に悲しくなるほどの距離を感じた。



仕事に人生のほとんどを費やそうとしている真彦、そして仕事と家庭の両立を見事に演じてみせる美佐江。

この二人は、自分の個室や流行の服や好物のチーズケーキやコンサートのチケット代やキティちゃんのポシェットなど、欲しがったものはとりあえず何でも与えてくれた。

しかしそれは「二人のじゃまはしない」という暗黙の了解に対する代価だったのではないか。

深く考えずに飼いだしたペットが餌を与えているうちに勝手に大きくなってその処置に困り始めた、歩美は今の二人の心理をそう読みとっていた。

そしてそんなことを思うたびに恐ろしいほどの孤独感が湧き上がってくるのを感じた。








2015年09月15日

山田バンビ『ひだまりの夏』-03

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翌日からはまさに猛特訓の日々が始まった。

授業が終わると部室に直行し、ウエイトトレーニング、スプリントトレーニング、ハードルを越えるときの前傾姿勢であるディップの取り方、そして十本のハードルの間隔を体が覚えるまで徹底的に走りこまされた。

入部前に出したタイムがどうであれ、歩美にとっては陸上競技を本格的に教わるのは初めてで、慣れない練習はさすがにこたえた。

ただ後悔はまったくなかった。

日増しにスピードを増していくのが実感できる、それが歩美の疲れきった体をすぐに奮い立たせた。




ハードルは十回の踏み切りと着地を繰り返すハードな競技で、当然助走から三台目ぐらいまでのスピードをゴールまで維持するのは至難の業だ。

歩美の速さの秘密は瞬発力と跳躍力、そしてスタミナにあった。

田所をはじめ、陸上部員たちを驚かせたのはトップスピードがゴールまでほとんど落ちないことだ。

いやハードルを一台飛ぶごとにさらに加速しているような錯覚さえもった。

歩美はもともと短距離はかなり速いほうだったが、その持ち前のスピードにスタミナが加わったことで、ハードル初心者とは思えないタイムを叩き出すことになったのだ。

今後ハードル競技の要となる踏み切り、ディップ、着地の練習を積み、動きに切れが出てくれば当然タイムは飛躍的にアップする。

その証拠に練習を始めてからわずか一週間でなんなく部内歴代トップのタイムを出した。


「いいか、踏み切りそして着地でいかにスピードを殺さないようにするかが大事なポイントだ。そのためには絶えず前へ出る意識をもて」

自分の目に狂いはなかったことを、その目で日々確かめながら田所は熱心に指導した。




そして一ヵ月後、歩美のデビュー戦がやってきた。

高校春季競技会。


歩美は100mハードルのスペシャリストとして出場することが決まった。

もちろん、出場校の関係者で歩美のことを知る人間はただの一人もいない。

ましてつい最近ハードルを飛び始めたことなど知る由もなかった。

おかげで歩美はデビュー戦にもかかわらず緊張感を抱くことはなかった。



競技がはじまった。

スタートのピストルの音がグランドに響くたびにスタンドに若い歓声があがる。四月の陽光は選手たちに絶好の環境を整えてくれていた。

いくつかの競技が終わり、予選二組の歩美の出番がやってきたころには、場内は少し気だるい空気が流れ始めていた。


歩美がスターティンググリッドに向かおうとしたとき、田所が歩美のもとに駆け寄ってきた。

そして耳元で、
「遠藤、おまえはわが校が誇る最強の秘密兵器だ。その威力を思う存分見せてやれ」

と緊張した面持ちでささやいた。

歩美はおかしかった。

田所のたいそうな言い回しがおかしかったのか。
まさにカニのようなこわばった顔がおかしかったのか。

そして次の瞬間、歩美の足の裏はグランドに吸い付いた。



あれっどうして私はこんなところに立っているんだろう──



田所の勇気づけようとした言葉が土壇場で歩美の心の奥底に眠っていた不安感を呼び覚ましてしまった。

その答えを見つけるまで歩美は次の一歩を踏み出せなかった。



わずか一ヶ月前ならこんな天気のいい日曜日は倫子とワイワイいいながら街中を遊びまわっていたハズだ。
それが、高校名の入ったゼッケンをつけられ、その高校を代表してこんなところで走らなければならないなんて、そんな資格も力もないのに、バカみたい…。



歩美は急に心細くなった。監督、倫子、ミユキ、誰か私を呼びに来て、早く…。




歩美は係員に手招きで誘導されるまでその場を動けなかった。

自分のコースに入りスターティングポジションを調整しながら歩美は恐ろしく冷たい孤独感を増長させていった。
       
スターターの合図に歩美の体は勝手に反応し飛び出すことは飛び出したが、二の足の体温は失われ、ちゃんと動いているのかさえ歩美にはわからなかった。

そしてほとんど何の自覚もないままゴールした。



それでも特訓の成果か2位に入り、かろうじて決勝戦に駒を進めることができたのがせめてもの救いだった。

肩で激しく息をしているところへ田所が迎えにきた。

田所は今にも泣き出しそうな顔の歩美の肩をやさしく抱いた。

「上出来だ。デビュー戦にしてはちゃんと練習通りに走れていたし、まあ大丈夫だろう。よくがんばったぞ」

田所の期待を大きく裏切ったことは、いくら気が動転していた歩美でも十分理解できた。

しかし田所のかけてくれた慰めの言葉は、思った以上に歩美を元気づけた。





昼食をはさみ午後から各競技の決勝戦が始まった。

肩の力が抜け、会場の雰囲気にも慣れた歩美の表情は予選とは別人のようだった。惨敗したのならまだしも、あんなにカチンコチンな体でも決勝戦に進むことができたのだ。

田所のいうように確かに上出来だったのかもしれない。歩美はそう思った。



女子100mハードル決勝。

歩美は7コースに入った。

今度は落ち着いていた。



これならいける。神様、どうか私に勇気をください。



全身の筋肉が一瞬弛緩した。

スタート。

右脚の反応はバツグンだった。

体がグングン前に進んでいく。

一台目のハードルを越えたところですでにほかの選手は視界から消えていた。

二台目を超え、三台目を超えてもまだどんどん加速していく。

体中の筋肉が脳からの電気信号を無視して勝手に動いている、そんな錯覚を歩美は覚えた。

2番手以下の選手はまるで別次元でレースをしている歩美の背中をながめながらあっけにとられていた。

最後のハードルを越えたとき、歩美は思わず口元から笑みがもれた。



なんて気持ちいいんだろう。



少し乱れた呼吸も歩美にとっては心地よいリズムを体に刻んだ。

練習ではこんな気分は味わえない。

なぜなのか自分でもよくわからなかった。




レースが終わったあとコース周辺のどよめきは、歩美のタイムが電光掲示板に映し出されると一気に会場内に広がった。

13秒08。

昨年のインターハイ優勝記録を大きく上回っていた。

日本選手権の記録と比較してもベスト3に入る。高校生の競技会で出るタイムではなかった。


しばらくの間、タオルで汗をぬぐう歩美をまるで化け物でもみるかのような目つきで遠巻きにながめていた選手や他高の教員たちが、田所やマネジャーの吉川が歩美のもとにやってきたのを機に一気にその輪を狭めてきた。


みんな、いろんなことを聞きたいのにいったい何を聞いたらいいのかわからない、そんなそぶりでただただ歩美の顔を好奇心丸出しで眺め回した。


その輪の中の一人が、歩美の肩をポンポン叩いて喜んでいる田所に声をかけてきた。

「カニちゃん、カニちゃん」

田所が顔を向けると、田所と仲のいい中央高校陸上部監督が目を真ん丸くしていた。

「ねえ、こんな子おたくにいたっけ?」

田所は予想通りの展開に上機嫌だった。

「いたんだよ、それが。秘密にしてたけどね」

「何で? こんなスゴイのがいたんならもっと早くレースに出して経験積ませたほうがいいじゃない」

「もちろんね。そうしたかったんだけど、できなかったのよ」

田所は思わせぶりな態度で微笑んだ。

「だってハードルはじめたの一ヶ月前だからさ」

「一ヶ月前?」


歩美を取り巻く人垣にはいつのまにかほかの競技の選手やコーチたちも入ってきていて二十人ほどになっていた。

みんな田所の話に耳を疑った。

「そうそう。まあいろいろあってね。今日がデビュー戦だったのよ。いかんせん時間がなくてね、まだ荒削りなところがあるけどよく走ってくれたよ」

なっ、といいながら田所は歩美の頭を乱暴に叩いた。


 好奇の目にさらされた歩美は、とりあえず恐縮してみせるしかこの場の対処のしようがなかった。

ここにいる選手のほとんどは歩美の何倍もの練習を積んできたわけで、猛特訓したとはいえ、わずか一ヶ月そこそこの経験しかない人間にあっけなく優勝をさらわれた心境は歩美にも察しがつく。

ただこれまでのように自分に向けられている視線から逃れようとする謙虚さはその表情からは読み取れなかった。

この一ヶ月間ほとんど単独練習ばかりだった歩美にとって自分の才能に実感がともなわなかった。

ましてこれまで興味をもったこともなかった種目だっただけになおさら田所が浴びせる賛辞の意味を理解しかねた。

逆に田所の自分への期待が高まれば高まるほど、ほんとうに自分は速いのだろうかという疑問符が増えていた。

それが今日はじめて結果を出したことで、そうしたわだかまりも一気に払拭された。



「ハードルやる前は何してたの?」

「100m走のタイムは?」

そうした他高の選手の矢継ぎ早の質問に丁寧に答えながら、歩美は圧倒的な力を手にした自信が体の奥底から少しずつわきあがってくるのを感じた。





やっとのことで人垣を抜け出し控え室にもどろうとしたそのとき、一人の女性が歩美に近づいてきた。

「こんにちは。レース見てたんだけど速かったわねえ。おかげで今日はスゴイ収穫があったわ」

二十七、八歳ぐらいのその女性は、ひとしきり驚いてみせたあと歩美と田所に名刺を差し出した。

「○○新聞千葉支局スポーツ部 記者桐嶋みどり」と印刷されたその名刺を見たとたん歩美は急に顔を紅潮させ、硬直した体を何度も折り曲げながらあいさつした。

その新聞は歩美の自宅でもとっている硬派の全国紙で、そんな有名な新聞社の記者が自分に話しかけてきたことで歩美は極度に緊張してしまった。

「ねえ、もしよかったらちょっと話を聞かせてもらえないかなあ」

今、気づいたのだが桐嶋の後ろには首からカメラをぶら下げたカメラマンも立っていた。

桐嶋もカメラマンも「取材章」と書かれた腕章をうでにつけていた。

歩美は横で立っている田所の顔をうかがい助け舟を求めた。

「それでは控え室のほうへいきましょうか」

そういうと田所は先頭切ってさっさと歩き出した。




長テーブルを挟んで桐嶋と歩美は向かい合って座ると、さっそく桐嶋はメモ帳を片手に質問をはじめた。

「えっと、名前は遠藤歩美さん、鷺ノ宮女子高校3年生の18歳、だよね」

「は、はい」

あまりの緊張感から歩美の声が裏返った。

「ごめんね、そんなに硬くならないでいいから、ね。いろいろお話は聞かせてもらうけど記事になるかどうかわかんないのよ」

桐嶋は肩の上できれいに刈りそろえられた光沢のある黒髪をなでながら、友達とでも話してるかのように舌を出して笑った。

「実はね、今日はこの近くで別の取材が入ってたんだけどドタキャンされちゃってね。しょうがいないからっていったら失礼だけど、ちょっとのぞきにきたの。そしたらあなたがあんなすごい記録を出したでしょう。高校生であのタイム、これはひょっとするとって思ってね話を聞きにきたってわけ」

そこまで聞いて歩美も少し肩の力が抜けた気がした。

「ところで申し訳ないんだけど、私あなたの名前記憶になくって。インターハイやジュニアオリンピックに出てきそうな選手の名前はたいてい頭にインプットされてるはずなんだけど。今日のタイムは当然自己ベスト、だよね」

「自己ベストも何も公式にタイムを出したのは今日がはじめてなんですよ」

歩美の横に座っていた田所が得意そうに口をはさんできた。

田所の言葉に桐嶋の目が一瞬光った。

後のテーブルでお茶をすすっていたカメラマンも身を乗り出してきた。

「はじめて? どういうことですか?」

桐嶋は歩美を凝視しながら顔だけ田所に向けた。

「そもそもハードル、いや陸上をはじめたのが一ヶ月前からなんですよ」

田所はこれまでのいきさつをたくさんの感嘆詞を交えながら桐嶋に説明した。

桐嶋は田所の話をメモしながら、

「そんな逸材を発掘した監督の眼力もすごいですね」

と、お約束通りの感想を田所に投げかけた。

田所にとっては最高のほめ言葉をもらって、茹でたカニのように顔を真っ赤に紅潮させながら首をポンポンと叩いて素直に喜びを表現した。

桐嶋は表情にこそ出さなかったが、内心これはいいネタが拾えたと小躍りしていた。

「それでどんな気分? 日本代表レベルのタイムを出した感想は」


桐嶋は一番聞きたかった質問を主役にぶつけてみた。

歩美は急に話を振られて両手の指をすり合わせながら一生懸命言葉を探した。

「つい最近まではいわゆる普通の高校生活を送ってたわけでしょ。それが今はこうして私の取材を受けてる。まさにシンデレラドリームよね」

桐嶋はそれ以上しゃべるのをやめ、辛抱強く歩美の言葉を待った。

「わ、私も最初は自分の置かれている状況がよく理解できませんでした。これは夢なんじゃないかって。でも夢なら覚めないでほしかった」

歩美はゆっくりと言葉を切りながらしゃべりだした。

桐嶋は歩美の目を食い入るように見つめた。

「今までは自分にはなんの取り柄もないって思ってたし、あ、別にそんな自分がいやだったわけじゃないんです。それなりに楽しくやってました。それがある日まるで宝くじにでも当たったような変化があって、でもまだ換金してなくて実感がわかなかったっていうか」

桐嶋は歩美の高校生らしい比喩表現に思わず声を上げて笑ってしまった。

「それ、すごくわかる。それで、まだ夢から覚めないって感じ?」

桐嶋の口から何気なく出た合いの手に、歩美は意外な反応を見せた。

それまでうつむき加減でしゃべっていた歩美は顔をあげて桐嶋の目を正面から見据えた。

「今は違います。夢のようだっていったのは本当に自分にそんな才能があるかどうか自信がなかったからです。でも今日はちゃんと優勝したし、速いタイムも出したし…。これからはいろんな大会に出て記録に挑戦していきたいって思ってます」

田所にちらっと視線を向けながら歩美は一気にまくしたてた。

歩美の目はこころなしか赤く潤んでいた。

控えめな性格だと思っていた桐嶋は、急に語気を強めムキになってしゃべっている歩美を冷静に観察していた。

そしてちょっといじわるな質問をしてみた。

「そう。じゃさっきの決勝戦で自分は生まれ変わった、というわけね?」

歩美は目をキョロキョロさせながら、かわいそうなくらい狼狽していた。

そんな歩美を見て桐嶋は確信した。

この子はもう以前の高校生活にはもどれないだろう。

今までは無意識のうちに自分に与えられた型枠から抜け出たいともがいていたのかもしれない。

それが今日華々しいデビューを遂げ、まさに生まれ変わるチャンスを手に入れた。

たぶんこれからはトップランナーとしての遠藤歩美を必死で演じていこうとするはずだ。

ただ下積み経験がほとんどない人間が才能と運のみで突如スポットライトのあたるステージにあがったとき、以前の自分との折り合いをどうつけていくかという問題に必ず遭遇する。

いやもしかするとこの子は折り合いをつけることさえ拒否するかもしれない、桐嶋はそんな「危うさ」を歩美に感じた。




その後いくつかの質問をして、桐嶋は取材を切り上げた。最後にグランドに出て歩美と田所のツーショット写真を撮った。

「明日の朝刊、楽しみにしててね」

 桐嶋は歩美にそういって笑った。





桐嶋とカメラマンが立ち去った後、撮影風景を遠巻きに見ていた部員たちが走りよってきた。

「遠藤先輩、今のどこの新聞ですか?」

「どんなこと聞かれたんですか?」

部員たちが矢継ぎ早に聞いてきた。

歩美はちょっと面映かった。これまで練習中に部員たちから「先輩」と呼ばれたことはなかった。

もっぱら遠藤さんと、さんづけで呼ばれていたのだ。

部員の中には一、二年生も多く三年の歩美は学年上は「先輩」になるが、陸上部の中では新参者の歩美は年齢が上だろうが「後輩」になる。

もちろんそれは歩美も承知していて、下級生相手でも決してタメ口はきかなかったし、別に気にもしていなかった。

それがいい成績をあげたとたんに部員たちの対応が急変したことがおかしかった。





歩美はなんだか空を飛ぶための羽が少しずつ生えてきたような気がした。

自分はこれまで地上を走り回る小動物だと思っていた。

大きな動物から身を守るために逃げ回り、大きな木のそばに身を隠す。

それが自分に与えられた現世での世界だと。

しかし世界はもっと広いことを理解しはじめた。




空を飛ぶ喜びは知らない。

でももしできるのなら飛んでみたい。



歩美は知らず知らずのうちに次のステップへ踏み出そうとしていた。

このとき歩美は飛ぶことと引き換えに払う代償の大きさをまだ理解していなかった。








2015年09月12日

山田バンビ『ひだまりの夏』-02

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歩美はこれまで目立つことを避けてきた。

というより無意識のうちに人の視線から逃れようとする習性が身についていた。


小学校四年のときに受けたいじめの記憶が脳のひだにしっかり刻みつけられ、それがトラウマとなっているのだ。

以来、人を敵か味方かに二分する癖が身についてしまった。

どちらか判別するまでは距離を置いて観察し、敵だと思えば一切近寄らず、味方だと判断した人間にはとことん甘える。

もともと警戒心をもって観察するものだから、必然的に味方の人間の数は極端に少ない。

ミユキや倫子は選ばれた数少ない味方だった。

ただ本来の性格はまったく逆の無防備な目立ちたがり屋で、その自分の一番の特徴が小学校四年のときには裏目に出て攻撃の糸口になってしまった。

いじめを受けていた当時は人格を否定されたような気になり、その反動は十年たった今でも消えるものではなかった。

田所の話は長い間無意識に抑え込んでいた本来の自分の性格を刺激し、心地よかった。





目立った言動や行動で注目されるのではなく、抗いようのない圧倒的な力で視線を集める。

考えただけでも歩美の心は浮き立った。    



 踏み切りを渡り駅前の商店街に入った。空には早くもひとつふたつ星が輝いていた。

歩美は駅からバラバラと吐き出されてくる会社帰りのサラリーマンやOLの雑踏の中をジグザグに進み、駅前ビルに向かった。

横断歩道の手前で駅ビルの二階を見ると、ガラスに張られたMのマークの横の席でミユキが倫子に向かって大きな口を開けてしゃべっていた。

歩美は思わず口元をゆるめ、駆け足で二階に上がった。

 二階席は同じ高校の制服を着た女子生徒で埋め尽くされていた。

「ごめん。お待たせ」

 そういいながら歩美は倫子の横に座った。

「ねえねえ聞いてよ。倫子ってさV6とnewsの区別がつかないっていうんだよ。信じられる? 山下智久はKAT-TUNだって言い張るし」

 歩美は困った顔でうつむいている倫子を見て笑った。

「まったく、そんなことじゃ女子高生としてのブランドの価値も半減するって今説教してたとこ」

 ミユキはそういいながらもちょうどいいヒマつぶしのネタをみつけて十分楽しんでいるようだった。

「まあ倫子らしくていいんじゃない。でもV6とnewsぐらいは覚えておこうよ」

 一瞬間をおいて歩美とミユキは吹き出した。

 ひとしきり笑ったあと、ミユキはポテト3本を口にくわえながら、

「だいじょうぶ。そんなウブな女子高生を好きになってくれるおじさんたちもいっぱいいるよ」

と、ちょっとムッとしている倫子の頬をつついた。

姉御風情が板についているミユキは切れ長の目に鼻筋がすっきり通った校内でも評判の美人で、性格は竹を割ったようにクール、そして成績も常に上位と、同性からみればほとんどすべての好材料を持ち合わせているように見える。

もちろんファンの数もハンパではない。

といっても女子高なのでファンはもっぱら下級生の女子生徒なのだが。

口の悪さは完成度の高い自分に対する唯一の抵抗なのかも知れない。

ツルむのが嫌いで一人でいても十分サマになるのだが、飾りっ気のない歩美や倫子とはウマが合うらしく、二人の間にしょっちゅう顔をつっこんでくる。

歩美も積極的に誘い出すことはしないようにしていた。

まわりの同級生に媚びないという点では倫子も同じだった。

おっとりしている上にゆっくりとした舌足らずなしゃべり方が時にあらぬ誤解を招くこともあるが、芯はしっかりしていて、主義に反することには真正面からぶつかっていく。情も厚く、歩美の小言はほとんど彼女が引き受けていた。

「で、どうだったの? カニカンと話してきたんでしょ」

 倫子をからかうのも飽きたらしく、ミユキがポテトを口に運びながら聞いてきた。

「うん、とりあえず明日から特訓だってさ。なんだか大変そうだよ」

 歩美は大きくため息を吐いてみせた。

ミユキも倫子も特にスポーツに関心があるわけでもないし、タイムがこうでと自慢するのも何か面はゆかったので、田所と話した内容はあえて話さなかった。

「そう。でもその表情から察するに陸上部における歩美のポジションは相当なもんだな」

「そういえばタイム計ってたときの田所先生の顔って結構うれしそうだったよね」

 カンの鋭いこの二人はすでにお見通しだった。歩美が厳選した友達だけのことはある。

 歩美はあらためて自分の出したタイムが田所に与えた衝撃について肩の力を抜いて二人に話して聞かせた。

「日本陸上界に新星現る、か。今のうちにサインもらっとこうかなあ」

 当事者でないミユキは、歩美の話を何のためらいもなくストンとのど元に流し込んだようだった。

「でもさ、歩美って陸上やったことなかったんでしょ。それでよくそんなタイムが出せるよね」

ひとり先走ってるミユキをよそに、倫子がより現実的な疑問をぶつけてきた。

「自分でもいまだに実感はわかないんだけどね。確かに短距離には多少自信はあったけど。でもね、うまくいえないけどハードルを飛んでる瞬間って、体がこうふわーっとなってそのまま飛んでいけそうな…とにかくすっごく気持ちいいの」

「ランニングハイ、みたいなもんかな」

 ミユキが口をはさんだ。

「よくわかんないけど、あれだったらまだいくらでも速く走れそうなのよ」

 いつの間にか歩美は身を乗り出してしゃべっていた。

「その屈託ない笑顔で、いくらでも速く走れそう、なんてカニカンが聞いたら泣いて喜ぶぞ。うん、すぐに落ちるな、あの男」

 二人は笑いながらミユキの言葉を聞き流した。

「期待が大きい分だけ結構練習もキツイと思うけどやってけるの?」

 真顔に戻った倫子が胸のうちを見透かしたように聞いてきた。歩美は不安を必死で打ち消すかのように一気にまくしたてた。

「そうなのよね。でもね、ようやく私にスポットライトが当てられたんだからこのチャンスを生かさない手はないと思うの。こうなったら次々に記録を塗り変えて、ジュニア選手権でもインターハイでも優勝して、テレビに出て、CD出して、そんでもって女優になって、共演したキムタクと噂になったりして、そしてハリウッド進出。ああアユミコールが聞こえるわ」

 両手を突き出した歩美を見て二人は腹を抱えて笑い転げた。

「そこまで妄想をふくらませられるアンタがうらやましいよ。私は現実を直視して生きていくわ」

 そういってミユキは立ち上がった。

「もう帰るの?」

「この年頃は何かと忙しいのだよ。じゃね」


 ミユキは片手で手を振りながら軽快な足取りで階段を駆け下りていった。

 残った二人はミユキが座っていた対面の席に移ることもなくしばらく無言のまま並んで窓の外を眺めていた。

電車がスシ詰めの乗客を明々と照らしながら高架橋の上を走っていった。

駅にはこれから始まる夜に興奮を抑え切れないといった感じの学生たちがワサワサと集まっていた。

窓ガラスに映った二人の姿がそんな薄暮の景色にぼんやりと重なった。

 倫子はゆっくりと歩美のほうへ顔を向けて聞いてきた。

「ねえ、歩美はどうするの?」

「これから?」

「そうじゃなくて卒業してからの進路。そろそろ個人面談が始まるでしょ」

 歩美たちが通っている鷺ノ宮女子高校は毎年七割の卒業生が進学する。この時期には教師との進路相談が始まるのだ。

「そうか。わたしは、まだなんにも考えてない。倫子は進学するんだよね。短大? それとも四大?」

「個人的には四大に入りたいんだけど父親がうるさくって。ほら今って就職難でしょ。短大のほうが就職率いいからって。でも大学卒業するころにはまた状況変わってるかもしれなし。今ねお母さんそそのかして二人でネゴシエート中」

 父親が折れるのもそう時間はかからないだろう。

倫子の表情を見て歩美はそう思った。

そして暗澹たる気分になった。

倫子の話し振りから家族の楽しそうな団欒が見えてきそうだった。

「歩美んとこのご両親はなんて?」

倫子は今は避けてほしかった質問を口にした。

「うちの親はね、別に私の進路なんてあんまり興味ないみたい。なんだか自分たちのことで頭がいっぱいで…」

 歩美はそういってトレーに散らばったポテトをみつめた。

さびしそうな歩美の横顔から目をそらしながら倫子は、

「そうなんだ」

 と、自分の質問の答えを収拾した。

 二人の間にまた沈黙が流れた。

歩美は倫子との間に薄い壁が出来そうな気がしてあわてて話題を変えた。

「ねえねえ、グレイがまた新曲出したでしょ。知ってる?」

「ううん」

「あのさあ、ミユキじゃないけど少しは女子高生したほうがいいんじゃない? これからさCDレンタルしにいくんだけどつきあってよ。今日は塾休みでしょ」

「うん、いいよ」

 二人は連れ立って夕闇の雑踏の中に入っていった。

 自分の知られたくない一面を知ってしまった負い目を感じて倫子がつきあってくれるのだとしたら、つらい。

歩美は倫子に人気ロックグループについてレクチャーしながら、心の中でそう思った。

 




 歩美が自宅に帰ってきたのは夜の八時を回っていた。

マンションのロビーにはひと気はなく、蛍光灯が青白くエントランスを照らしていた。

歩美の自宅は八階のエレベーターホールを左にまっすぐいった突き当たりの808号室。

通路側の部屋からは明かりが漏れていたが、歩美はいつものように構わず鍵でドアを開けた。

音を立てないようにそっと自分の部屋に入りパジャマに着替えるとすぐにシャワーを浴びにいった。

シャワーを浴びていると、今日一日の出来事がすべて流されてしまうようで寂しかった。

風呂を出ると台所へ行き真っ暗なリビングのライトをつけた。

冷蔵庫からラッピングされたメンチカツを電子レンジに押し込みスタートボタンを押した。

そこへ奥の部屋から「歩美、帰ってるの?」と声が聞こえた。

歩美が黙っていると母の美佐江がリビングのドアを開けて入ってきた。


「いつ帰ってきたの。帰ってきたら声ぐらいかけなさいっていつもいってるでしょ」

そういいながら美佐江はテーブルに置いてあった雑誌に目を止め、こんなとこに置いてあった、とその雑誌を手に取った。雑誌をめくりながら、

「最近ちょっと帰り遅いんじゃないの? もう高校三年なんだから少しは自覚持ちなさいよ。そうそう、あと奥にキンピラもあるから」

 それだけいうと、美佐江はまた奥の自分の書斎に入っていった。

 歩美は一人分の食事をテーブルに並べテレビをつけた。

 食事が終わった後しばらくリビングのソファーに横になりながらテレビを見ていたが、父の真彦が帰ってくる夜の十一時前には部屋に引き上げた。



 平日はいつもこんな調子だ。
いや、週末もたいして変わらない。真彦は大手出版社の雑誌の編集者、美佐江はフリーでライターの仕事をしている。

真彦が美佐江に仕事の依頼をしたのがキッカケでつき合うようになり、その一年後には同棲生活を始めた。

美佐江が歩美を身ごもり入籍。

美佐江は周囲の反対をよそに子供を生んだあとも近くに住む両親に歩美をあずけてほとんど休むことなく仕事を続けてきた。

歩美はよく美佐江から「お父さんはいいわよね、好きなことだけやってればいいんだから」と、家庭を顧みない真彦の愚痴を聞かされていた。

しかし、そういう美佐江も原稿の締め切りが近づいてくるとほとんど部屋から出てくることはない。

そんな二人の関心が歩美の上で交わることはなかった。


 愛情という肥やしを受けずに育った子供は、そのまま地中に埋もれていくか、あるいは生まれた鉢の外に自分の生き場所を求める。

歩美は結局周囲の友達に栄養補給を受けていた。

しかしそれも小学校四年生のときに絶たれ、鉢の中にも帰れない歩美は日陰でひっそり生きていくしかなかった。

高校に入りミユキと倫子と知り合えたのは歩美にとってはまさに幸運だった。

友達のありがたさが骨身に染み渡っている歩美は、二人を決して裏切るまいと誓いつつ、敬遠されないよう家庭の事情は極力隠していたかった。




歩美は部屋にもどり借りてきたCDをヘッドフォンで聞き始めた。
それも二曲目に入ったところでヘッドフォンを頭からはずしベッドに仰向けになった。

目を閉じて今日の出来事を記憶のフィルムを巻き戻しながらひとつひとつ思い出してみた。

タイムトライアルで感じたあの不思議な感覚がまた歩美の脚にもどってきた。

気持ちよかった。

周囲の視線を一斉に浴びながら、走り、飛び、また走る。

そのまま空に舞い上がって行きそうな爽快感。

あんな体験ができるなら何度でも走りたい。

歩美は心の底からそう思った。

ただ自分のタイムが高校生のトップレベルだというのはいまだに自覚がない。

歩美はパジャマの裾をめくり、両脚をまじまじとみつめた。

自分のどこにそんなパワーが隠されていたというんだろう。

一夜明けるとすべて夢だった、なんてことはないだろうか。歩美は寝るのが怖かった。




もし、夢なら、覚めないでほしい、どうか…。



歩美は静かに眠りについた。





2015年09月05日

山田バンビ『ひだまりの夏』-01

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 笛の音が空気を振るわせた瞬間、歩美の右脚はすでに三歩目を踏み込んでいた。

一本目のハードルを超え、二本目、三本目。そのまま宙に舞い上がっていきそうな跳躍。

視界二十度以外の風景が飛ぶ。

踏み込む左脚で空気を圧縮し、その反動で右脚がバーをなめるように飛び越えていく。

右手、左手、右脚左脚、呼吸、心臓、毛細血管ひとつひとつのパーツが互いにリンクし、スパークし、極限まで機能を発揮し動き回る。

コース脇で好奇の目を向けている陸上部員たちの顔が瞬く間に消え去っていく。

十分の一秒を競っている意識はとうに失せ、体が勝手に動くことの陶酔感を歩美は思う存分楽しんでいた。

 最後のハードルを越え一気にゴールを突き抜けたあとも、歩美はこのまま永遠に空中を舞っていたい衝動を抑えることができなかった。



吐く息が春の青い風の中に溶けていった。

腰に手をあて、ゆっくりと深海のような空を仰ぎ見た。

歩美の分身はいまだ宙を駆け巡っている。


グランドの遠くで小さな歓声が風に運ばれてきた。

同じクラスのミユキと倫子が大きな口をあけて手をふっている。

その視線の途中に陸上部顧問の田所が着物でもはおっているような内股で走りよってくる姿が目に入った。

田所の吐く息が顔にかかる距離まで近づいたころには歩美の呼吸はすっかり落ち着いていた。


 そういえば自分は速かったのか、それとも田所のおメガネにかなうような才能は所詮持ち合わせていなかったのか―夢中で100mを駆け抜けた歩美には見当もつかなかった。


「三本走ってラスト一本がフォームも一番よかった。タイムはえーと、14秒72か。宮高の岡崎が南関東大会で出した記録が確か14秒77だったよな」

 目元に張りついた汗をぬぐいもせず、田所はいつからそこにいたのか歩美の斜め後ろに立っていたマネジャーの吉川清香に聞いた。

「そうです。追い風でしたけど。でも14秒72って…。遠藤さん、ほんとにタイム計ったのって今日がはじめてなの?」

田所と同様、吉川も興奮さめやらぬという感じで歩美の顔をまじまじと見つめた。吉川の言葉を田所が間髪を入れずに引き取った。

「そうさ、すごいだろ。ほとんど練習らしい練習をしないでこれだからな。しかし一週間前の試走を見たときは正直これほどのタイムが出ているとは思わなかったが」

「とりあえずは六月の予選に向けて調整、ですね」

吉川の声はあきらかにそれとわかるほど弾んでいる。

「その前に来月の県大会だな。一ヵ月もあれば十分だろう」

 田所の目はほしかったおもちゃをようやく手に入れた子供のように輝いていた。

「あの、」

「さっそくあしたから特練だな。吉川、遠藤に基礎練用のスケジュール組んでやれ」

「あの、で、どうなんでしょうか」

間にはさまれた歩美がたまらず口をはさんだ。

「ああ?」

田所は吉川から歩美に視線を移した。心なしか声が上ずっている。

「そのタイムは合格点、なんですか」

歩美の顔からはさっきまでの自信に満ちた表情はすっかりそげおち、いつもの消え入りそうなトーンに変わっていた。

「合格点かって? うーん、それはまだわからんな。来月の大会で三位までに入ればまずは合格かな。そのあとはインターハイだ」

「……」

田所の話し方は高ぶる気持ちが勝手に言葉を繰って口から出ているようだった。

警戒心を露骨に顔に貼りつけたまま、歩美は黙って田所の胸のあたりに視線を泳がせた。

田所は二人の顔を見比べながら立っている吉川を横目に、歩美の耳元に顔を近づけた。

「はっきりいってお前のスピードはずばぬけている。おそらく今のフォームのままでも県内でトップを争える。初めてのタイム測定だし、自分ではピンとこないだろうけどな。バスケ部の南先生が大事な部員を推薦してきたのもわかる」

田所は意識しながらゆっくりと言葉をついだ。

「しかしきょうお前の走りを見て直感した。狙える。それ以上をな。だって考えてみろ。つい一週間前に障害の基本をレクチャーしただけでこのタイムだぞ。まったくこんな逸材がウチの高校にいたとは」

真剣に悔しがっている田所の顔をみて、まんざら大げさな話でもないことが歩美にも少しは理解できた。

「ありがとう、ございます。あの、とりあえずよろしくお願い、します」

歩美はかき消えそうな小さな声を口から絞り出した。

「とりあえず、か。ははは。よし、さっそく入部手続きだ。着替えたら部室まで来てくれ。いいな。それと明日から特練やるからな。なにせ時間がない」

田所は踵を返しながら言った。

「お前の高校生活もな」





どことなくうれしそうな田所の背中を眺めながら、歩美はようやく一息ついた。

もし田所のいったことがほんとだとしたら、いったい自分のどこにそんな才能がかくれていたというのか。

ハードルを飛んだのは中学校の体育の授業のときぐらい。
陸上競技の中でもどちらかというと地味なカテゴリーだし、もちろん興味をもったこともない。

走るのは速いほうだが、これまではもっぱら球技専門で、中学校ではバレー部だったし、今はバスケ部でそこそこ楽しくやっている。

それにいくら短距離は得意とはいっても、陸上競技をかじったこともない自分にはまったくの別世界だ。

たまたまバスケ部の練習中にミニハードルをとんだとき部内で一番のタイムを出しただけなのに、顧問の南先生がおおげさにさわいで田所先生に陸上向きの部員がいると推薦し、今日のタイムテストに至ったわけで…。



もしかすると南先生はいつまでもレギュラーになれない私をただ追い出したいだけなんじゃ…。
だいたい二、三回走ったところを見たぐらいでいったいなにがわかるっていうの? 
そうよ、それなのにあんなマジな顔して、狙える? インターハイ? イン…タ…。歩美の思考回路はショートした。

でももし、本当だとしたら。自分に想像を絶するものすごい才能があったのだとしたら。

実際自分が出したタイムはまんざらでもなさそうだったし、そう、練習すればもっと速く走れる自信もある、と思う。でも、ないといえば、ない。



高校受験で自信があった志望校を見事に落とされて以来、歩美には自分の自信は当てにしない習性が身についていた。

地味なだけがとりえだった自分に降ってわいたような話に歩美の頭の中は混乱の極地に達していた。

そうだ、ミユキや倫子は今の田所の話を聞いたらなんていうだろう。
「あんたにそんな才能があるんなら、私は今頃オリンピックで金メダル十個ぐらいとってるって」byミユキってとこか。

倫子なら「ハードルってなんだか股が痛そう」なーんて間の抜けたことを言われそうだ。

歩美は二人の顔を思い浮かべながら、ヒクついていた頬の筋肉をゆるめた。まあいずれにしてもまともには取り合ってくれないだろう。それはそれでいいのだが。でも本当にこんな私が…。歩美の頭はまた堂々巡りを始めた。  



ピッという田所の笛が風の音ともに聞こえてきた。それを合図に歩美はゆっくりとロッカー室に足を向けた。
初夏を思わせる生暖かい風がグランドを這って歩美の脚にまとわりついた。


制服に着替えロッカー室のドアを開けると、スタンドで見物していたミユキと倫子が奇妙な嬌声を発しながら近づいてきた。

「第1のコース遠藤歩美、ゲート試験不合格で発走じょがーい」

 と、ミユキの第一声。

「えー、なにいってんの? で、どうだった」

 ミユキは肩に手をまわし、倫子は右腕に絡みついてきた。

二人のノー天気な顔をみたら、さっきまでぐだぐだ考えていた自分がばからしく思えてきた。ただタイムテストを受ける前の自分にはまだ戻り切れていなかった。歩美は他人行儀な顔で何のヒネリもない返事を返した。

「うん、とりあえず合格だってさ。タイムはそこそこよかったみたい」

「うっそー。すごいじゃん。で、どうすんの」

「…え? これからマック行くって話?」

「アホ。じゃなくて、陸上部に転部するのかしないのかって聞いてんの」 

 「か」にアクセントをつけてミユキが聞いてきた。

「そういえばわたしの意向は聞かれなかった。入部手続きするからあとで職員室に来いって」

「なにそれ、カニカンってけっこう強引ー」

 カニカンとは田所のあだなで、カニに似ている監督、の意味。そういえば四角い顔はカニに似ている。

「まあこのままバスケ部にいてもどうせ万年補欠だし、屋内より外で日に当たってたほうがワコウドらしくてよろしいかもね」

「ミユキってほんと口悪いね。だから男も寄りつかないんだよ」

「わたし女の子のほうが好きだから、ちょうどいいのよ。知らなかった? 倫子のことも嫌いじゃないよ」
 ミユキはまじめな顔して倫子の目をのぞきこんだ。

「あ、ありがとう」



 二人の他愛のない会話を聞いて、歩美は少しずつ全身に張りついていた緊張感がほぐれていくのを感じた。

 二人とは駅前のマックで待ち合わせする約束をして、歩美は陸上部の部室へ向かった。

 部室のドアを開けると、とたんに汗と無造作に放置されたシューズのかび臭いにおいが歩美の鼻腔に飛び込んできた。部屋の中は窓から差し込む夕暮れの西日が長い影を作っていた。

 部屋では二人の部員がおしゃべりに興じていた。胸のゼッケンには2年とプリントされている。

「あの、田所先生に呼ばれたんだけど」

歩美は二人に呼びかけたが、声が小さかったのか二人とも歩美の存在にまったく気づく気配はない。

「ねえ」

 歩美は声を強めた。
ようやくそのうちの一人が歩美に気がついた。

「田所先生にここに来るようにいわれたんだけど。まだ来てない?」

 視線が合ったほうの部員が怪訝そうな顔つきで田所を呼びにいった。

 田所がくるまで歩美はしばらく部室の中をぶらついた。

おせじにも片付いているとはいえない部室の中は電気をつけていないこともあり、暗く、くさかった。奥には折れた高飛びのバーや留め金がはずれたハードルなど壊れた用具類が埃をかぶって積まれており、陸上部の歴史と現状を静かに語っていた。

スター選手がいるわけでもなく、大会に出ても予選落ちが多くて部員の数も年々減っている、とバスケ部の友人はいっていた。

そういう状況が、高校3年で転部しようという歩美の気分をいくらか軽くしたのは間違いない。

今所属しているバスケ部も本腰を入れてやっているつもりはなく、どちらかというと同好会的な色合いが強い。

気の合う友達と楽しくスポーツができればいいとった程度の意識しか、歩美にはない。

適当に遊んで適当に部活もやる、そうして高校3年間を終わるつもりだった。

運動バカは嫌いだし、またそんな根性もなかった。

実は田所の話しだいでは歩美は断ろうとも思っていた。

中途半端な考えでやることになっても結局迷惑をかけるだけだと思たったからだ。床のリノリウムが所々はがれている部室をながめながら、歩美の心は揺れ動いていた。





 首から笛をぶらさげた田所が、荒い息づかいとともに部室に入ってきた。

「すまんすまん。全員のタイムを測定してたもんだから、途中で終わらせられなくてな」

 そういいながら田所は窓際の丸いすを歩美にすすめた。

「まあ、これを見てくれ」

 息を整えながら田所は手元のバインダーに挟んでいた一枚の紙を歩美に渡した。そこにはさっきまで測定していたというハードル選手全員のタイムが記録されていた。

「いまうちで一番速いのがこの原田だ。そしてこれがさっき測定したおまえのタイム」

 田所が指差した自分のタイムは原田より1秒近く速かった。

「原田は県大会で三位に入ったこともある。決して遅くはないが、それをほとんど未経験のおまえが1秒も上回っている。わかるか?」

 歩美は視線を床に落とした。

 田所は歩美のスタートの切れのよさ、スピード、脚さばき、そして何より天性のセンスのよさを褒めちぎった。

「これからいったいどこまでタイムを伸ばせられるか、実は俺にもわからん。でも俺の直感が正しければおまえはとんでもない潜在能力をもっている。まさに超高校生級だ。へたするとおまえの相手は高校生ではなく、日本記録保持者の金沢イボンヌかもしれん」

田所は自分の吐いた言葉に動揺したようだった。しばらく間をおいて、

「慣れないおまえにとっては練習はちょっときついかもしれんが、鷺ノ宮女子高校の名を全国に高めるためにもぜひがんばってもらいたい。」

 と、教師らしく慇懃に言葉を継いだ。

 そのあと、田所は腕の振り方や頭の位置などこまかな改善点について身振り手振りを交えながら延々三十分ほど話し続けた。

 結局歩美が解放されたのは六時のチャイムが鳴り終わったころだった。

いつのまにかグランドから聞こえていた歓声も消え、窓ガラスには赤く焼けた空が映っていた。

 失礼します、と歩美は頭を下げて退室した。まだ頭の中にはうすい膜がはっているようで少し重たかった。それもグランドを横切り校門を出るころにはすっかり消え、替わりに急に心臓の鼓動が激しくなった。







2015年08月30日

山田バンビ『ひだまりの夏』あらすじ

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平々凡々と高校生活を送っていた遠藤歩美。

ある日、陸上部の監督にハードル選手としての非凡な能力を見出されてから、

彼女の生活は一変する。

超高校生級の驚異的なタイムを次々にたたき出し、

マスコミからも注目を集めはじめ、まさにシンデレラドリームを実現を手にいれかけたのだが、

慢心した彼女に突然悲劇が襲う。

小学生の校庭で小学生相手に自転車飛びの遊びをしていてハンドルに脚がかかり転倒、

頭を強打した彼女はそれが原因で視力を失ってしまう。

何度も挫折しながら、彼女はメトロノームを使って歩幅を体に叩き込む練習をしてついに復帰を果たす。

事情を知らない大観衆が見守る中、復帰戦となる大会で歩美は先頭でハードルを越えていくが、

途中で脚がハードルにかかり転倒、

ゴールどころかすぐそばのハードルさえ見えない歩美はその場に立ち尽くしてしまう。

事態をようやく飲み込んだ観衆は…。