
嘉山リンはほんの少し口を開いた。
ぼくはそのわずかな隙間から発せらる言葉を聞き逃すまいとじっと見つめていた。
しかし、一度のどから発せられたであろう「返事」は薄い唇のすきまからはいつまでたっても出てこなかった。
しばらくして、あきらかに引っ込められた言葉にすりかわって的外れなことを口にした。
「すっごくおいしかった。よね? エビ好きのわたしにはもうたまらない、って感じ。また来たいなあ」
「…そ、そう。エビが…」
あまりにも想定外の返事にすっかりあわてて、うまく対処できなかった。
ただ、「また来たい」というフレーズが、遠まわしの「返事」とも考えられなくもないと思いなおしたぼくもそれ以上詮索することはやめにした。
とりあえず食事は済んだから出ようか、もしかするとそういうメッセージなのかも。
とっさにそう思ったぼくはレシートを手にとると、「さて」といいながらテーブルに手をついた。
嘉山リンもそれを合図に隣のイスに置いていたバッグやイーゼルやらを手にとった。
「ね、このあと、なにか予定ある? すぐそこのスパイラルホールでなんていう名前だったか、世界的に有名な写真家の個展やってるんだけど。ちょっと寄っていかない?。それとも、もう見ちゃった?」
うわずった声をごまかそうとぼくはピエロみたいに両頬を引きつらせながら満面に笑みを作った。
嘉山リンの口がかすかに動いた。
と同時に、あろうことかぼくは立ち上がりざまイスを引いてしまった。
床を引きずるイスの音が天井の高いホール中に響き嘉山リンがなにを言ったのかぼくにはまったく聞き取れなかった。
正確には嘉山リンが何かいったのかどうかもわからなかった。
ぼくは引いたイスを投げ飛ばしたかった。
隕石に当たって死んだ人がいたが、ぼくの一生のなかでまさにダントツで最悪のタイミングだ。
彼女がなんと返事したのか、まさかもう一度同じ質問をするわけにもいかず、ぼくは彼女の返事をさぐるように横顔を凝視した。
しかし、嘉山リンはそんなぼくの詮索をかわすように荷物を抱えてレジに向かった。
あわててぼくは嘉山リンの後を追う。
そう、さっき表参道の沿道からこの店に向かうときのように。
嘉山リンはレジの斜め前に立つと肩にかけていた重そうな荷物の肩紐に両手をそえ、「ごちそうさまでした」そんな殊勝な表情でぺこりと頭をさげた。
地球を指の先っぽでくるくる回していたような嘉山リンの、「控えめ」な一面を見てぼくも彼女のお礼に応えるように両手を太ももの外側にぴたりと添えてうやうやしく頭を下げた。
「ほんとにごちそうさまでした。ああ、楽しかった」
嘉山リンの頬にまたほんの少し紅がさしている。
ぼくはいまにもマグマが噴出しそうなくらい高熱を発している右のわき腹を左手でそっとさすった。
会計する自分の背後に立っているのもバツが悪いと思ったのか、嘉山リンは先にそっとドアを開けて外に出た
「領収書はいかがいたしましょうか」
黒の蝶ネクタイをしたウエイターに聞かれ、一瞬勤務先の出版社名が口から出そうになったが、あわてて、
「いえ、領収書は結構です」
なぜか晴れ晴れとした口調でそういった。
いつもは平気で領収書を切るくせに。
きょうはあくまでもプライベートなのだ、デート代を会社に出してもらうわけにいかない、そういう思いが自然と口調に出たのだろう。
ぼくはちらっとドアのほうを見た。
ドアにはめこまれた赤と緑のステンドグラス越しに嘉山リンの白のジャケットがうっすらと透けて映っていた。
受け取ったお釣りを財布にしまいながら、ぼくは今後の計画を瞬時に練った。
さてどうしたものか。
とにかくあしたに連結した電車に乗るためのチケットを手に入れなければ。それにはあとひとつくらいイベントを用意したほうがいいのは間違いない。
近場のコースをいろいろ頭の中でたどった。
外苑前のル・シュブレで紅茶を飲む、乃木坂をのぼって国立新美術館へ行く、神宮外苑の中の静かなベンチに座って話しをする。
いくつかのルートがカーナビの画面みたいに浮かんでは消えた。
とはいえ、さっきの写真展の誘いに嘉山リンがなんと答えたのかわからない以上、実のところ次の作戦もたてようがなかった。
ふと視線を感じて横を見ると、スパークリングワインをトレイに乗せたウエイターがいぶかしそうにぼくの顔をのぞきこんでいる。あわててぼくは出口に向かった。
たぶん。たぶんだが、彼女の性格から推察するに外に出たとたん「ねね、スパイラルホールってどっち?」あるいは「あーあ、せめて一日前に誘ってくれてたらさびしくひとりで観にいったりしなかったのに」あるいは「ごめんね、絵描きのくせに写真興味なくて。ほかにオススメのスポットってないの?」。そんなふうになにかしらのリアクションを見せてくれるはずだ。
きっと。
まさに他力本願だが、嘉山リンなら薄ら笑いを浮かべたぼくの顔を見たら浅薄な悩みなんかカンタンに察してくれそうな気がした。
まったく根拠のない確証に背中を押されドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、熱帯雨林地帯のような強烈な陽射しが視界をさえぎった。まるで一時間ちょっとの短い間に地軸が傾きぐっと真夏に近づいたようだった。
めまいがして思わず倒れそうになった。手さぐりするように薄目をあけて足元のアスファルトに刻まれた自分の短い影を見てようやく目がなれた。
顔をあげると嘉山リンはいなかった。
あたりを見回しても姿は見えない。
人ごみにまぎれるほど通行人はいないし、というより一瞬で数えられるほどしか歩道を歩いている人はいなかった。
もしや角を曲がった外苑東通り沿いの花屋のイケメンと話し込んでいるとか。
そう思って「トラットリア」のオープンテラス側をのぞいてみたが、ただチラチラと光の粒があたりに散らばっているだけだった。
「ねねこっちこっち。おもしろそうな店があるよ」そういいながらふいに路地から顔を出してくるシーンに備えてぼくは笑みを絶やさなかった。
しかしなかなか嘉山リンは顔を出さない。急に右のわき腹が痛くなってきた。
痛みが激痛に変わらないようぼくは左手でわき腹をわしづかみしながら探す視界の範囲を半径十メートルから一気に百メートルまで広げた。
アフリカの広大な原野で一匹の雌ライオンを探すようにぼくは目を細めてあたりを見渡した。
笑みを作っていた表情筋はいつしか弛緩し唇がかすかに震えているのが自分でもわかった。
六車線ある目の前の二四六号線の反対側に目を凝らしたときだった。
胸につまっていた息のかたまりがふーと口から漏れた。空に続く白い階段のような長い横断歩道の先で、嘉山リンがぼくに向かって子供みたいに大きく手を振っていた。
ほっとしたことで全身の緊張感が水みたいに流れ落ちて身軽になったぼくは嘉山リンに負けないくらいその場でジャンプしながら大きく手を振った。
急いで横断歩道を渡ろうと足を踏み出した瞬間、けたたましいクラクションとともに、洪水のように車が左右を流れ出した。
それまで車をせきとめていた信号が青に変わったのだ。
ぼくはあわてて後ずさり、遠くからでもわかるように大げさにバツの悪そうな顔を嘉山リンに見せた。
ワンボックスカーやバスなど車高が高い車が通るたび嘉山リンの姿が視界から消えるのがもどかしかった。
まるでパラパラ漫画を見ているように嘉山リンの振ってる手が一コマずつ動いていく。
なぜ嘉山リンが先に横断歩道を渡ったのか、そのときはさして考えもせず、とにかく一分一秒でも早く目の前の黄河のような幹線道路を渡りたくて気だけがあせっていた。
そんなぼくのはやる気持ちをあざわらうように車が猛スピードで視界を横切っていく。
決して越えられない長大で深淵な海溝のようにぼくと嘉山リンの間に二四六号線が横たわっている。
ぼくは見失わないように背伸びしながら車のすきまから嘉山リンを見ていた。
するとそれまで子どもが観覧車の上から母親に手を振るように両手いっぱいに振っていた嘉山リンの手がコマ送りでしだいに下がっていった。
同時にぼくのわき腹がギリギリとしめあげられていく。
両手がだらりと下げられると、こんどは右手だけがゆっくりゆっくりあがっていくのが見えた。
ダメだ、ダメだ、ダメだ、手をあげちゃダメだ! ダメ…。
対岸にひとり取り残されたぼくはどうしたことか必死にそう祈った。
わき腹の激痛は全身をかけめぐり立っていることもままならない。
それでもぼくは嘉山リンを真正面から見つめ祈った。
しかし、嘉山リンの右手は強い力にあらがうようにゆっくりと確実にあがっていく。
右手が胸のところでぴたりと止まったとき、さっきまではしゃいでいた喜びに満ちた顔からは笑みが仮面をはぎとったように消えていた。
スローモーションで右手が小さく左右に振れた。
その瞬間、耳からすべての音が消えた。ぼくはおぼれそうだった。
東京の真ん中で息ができず、鼓膜が水圧で圧迫され、半開きの口から水がどんどん流れ込んた。
酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせながら、ぼくはなにか叫んでいた。
「なぜ? どうして?」
同
じフレーズがバカみたいに何度も何度も頭の中でリフレインしている。
目の前を時間のトンネルを駆け抜けるように規則正しく車の列が流れていく。
一瞬、リンの頬が光った。灼熱の砂漠に湧いた一筋の湧き水のように。
リンも、おぼれている。
ぼくはそう思った。
Tシャツにプリントされた象の耳のあたりで力なくひろげられていた手のひらがわずか一日しか咲かないムクゲの花のように小さくしぼんでいく。
そして嘉山リンはそっと背中を向けると、二四六号線と交差する路地に向かって歩き出した。
その動きはブラックホールに吸い込まれる直前の人間のように恐ろしく緩慢で止まっているように見えた。実際、リンの小さな背中はしばらくの間ぼくの脳裏に焼きついていた。
路地を曲がるとリンは、ゆっくり歩を早め、やがて駆け出した。
スコールに追われるみたいに。
そして街路樹の葉のすきまに白い残像を残して、消えた。
ぼくは霧の中で立ち枯れした木のようにただそこに立ちすくしていた。
やがて信号が青になり、三人組のOLとスーツ姿のビジネスマンがふたり道路に塗られた白線をまたいで渡っていった。
しかし、ぼくは足が前に出なかった。
全速力で走ればまだ追いついたかもしれないのに。
追いつく自信はあったのに。
でもぼくの足はかたくなに動こうとしなかった。
別に筋肉が硬直していたわけじゃない。足が前に出るのを止めていたのは、自分の意思だった。
リンはぼくとのつながりを絶った。
はっきりと目の前で。
なぜ?
理由はわからない。わからないが、明らかに自分と彼女の時間が交差することを拒んだのだ。
ぼくはただ、あるじがいなくなったヤドカリの殻みたいに、
寄せる波にゆらゆらゆられながら、リンが消えた街路樹の向こうをいつまでもじっと見つめていた。
アスファルトに焼きついた一瞬の記憶だけを残して嘉山リンがぼくの前から消えてから一度だけ、街で嘉山リンを見かけた。
ユキナの運転する車が三軒茶屋の交差点で信号待ちしているときだった。
ぼくは助手席を倒し、ビルとビルの隙間を流れる雲をぼんやりながめていた。
せかすように無機質な音が通行人の背を押していた。
ぼくはなにげに頭の下に腕を差し入れ首を折り曲げた。
車の窓の下のほうをススキの穂のように交差点を渡る通行人の頭が左から右に動いていた。
気が付くとそのひとつをぼくは必死に目で追っていた。
ボーイッシュな髪型、木に巻きついたツルのようなくせ毛、ほんのり褐色を帯びた華奢なうなじ、そしてこぼれおちそうなくるくる動く大きな目。
横顔しか見えなかったが、嘉山リンに間違いなかった。
いや確信がもてるかといわれると、一瞬躊躇したのは事実だった。
ひとつだけ、嘉山リンっぽくない雰囲気が漂っていたのだ。
どんな、と問われると自分でもはっきりとはわからなかったが、とにかくあのときの、あの日の嘉山リンにはない翳(かげ)を感じた。
決して太陽の光が届く事がない月の裏側にいるような、宇宙のずっとずっと底のほうに落ちてしまったような、パンドラの箱の中でただじっと時間が過ぎるのを待っているような、小さな脆弱な息遣いが聞こえてきそうだった。肩にかけた大きなカバンの紐を右手でしっかり握り、ほんの三メートルほど先の地面を見て、流されるように歩いていた。
ぼくはたまらず両手でジーンズの太ももを握りしめた。
そしてかさかさに乾いた唇をぎゅっと噛んだ。外苑の街路樹に消えたあのときと同じ、フロントガラスの右隅にいまにも消えていきそうな嘉山リンをつなぎとめようとぼくは身を乗り出して小さな背中を追った。
「なに? どうしたの?」
豆粒みたいなリンの姿が、人ごみに、沈んでいく――。
「ねえったら。どうしたのって聞いてんでしょ。とり憑かれたみたいな目して。誰か知ってるひとでもいた?」
「…ううん」
「なによ、ううん、って」
「…うん」
「もう。ぜーんぜん心ここにあらずって感じ。ザリガニでも見つけた?」
「うん…、え? ザリガニ?」
ザリガニと聞いてぼくはようやくユキナが話しかけていたことに気づいた。
「きゃはは。ほんと、いまさ、トオルが飼ってるかわゆいかわゆいザリガニちゃんをながめてるときのさ、あのヘーンな目になってたよ。マジで」
「ヘン」に盛られたアクセントには嫌味がたっぷり込められていた。
「ザリガニ」
自分でつぶやいてみた。そして、それっきり言葉が出なかった。
ときおり、夜風に吹かれながら水槽のなかでうにうにと動くアメリカザリガニを見ていると、あれは夢だったんじゃないか、とふと思うことがある。
幻影。
すべての夢はどこからともなく生まれ浮遊しそしてわずか一日で心の中にぽっかり開いたブラックホールみたいな穴の中に吸い込まれて消える。
嘉山リンもそうした夢の中に現れた幻影にすぎず、本来ならあっという間に消えてしまうはずだったのが、なぜか記憶のひだに焼きついてしまった。
もしすべての夢が消えずにいつまでも頭の中に残っていたとしたらあっというまに頭がパンクしてしまうだろうし、あるいは嘉山リンのことなんか、小学校の給食で出たはじめて見るデザートくらいにしか覚えていなかったかもしれない。
たったひとかけらだけ残った夢の残像。
たぶん、ぼくはこれからも一生消えない心に刺さった針のような夢の残像を抱えて生きていくんだろう。
かりかりとプラケースを掻いていたアメリカザリガニがにゅうっとはさみを突き出した。
それを見て思わずぼくは泣きそうになるのをごまかすように、苦笑いした。
(了)