2016年02月21日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』最終回

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嘉山リンはほんの少し口を開いた。

ぼくはそのわずかな隙間から発せらる言葉を聞き逃すまいとじっと見つめていた。

しかし、一度のどから発せられたであろう「返事」は薄い唇のすきまからはいつまでたっても出てこなかった。




しばらくして、あきらかに引っ込められた言葉にすりかわって的外れなことを口にした。

「すっごくおいしかった。よね? エビ好きのわたしにはもうたまらない、って感じ。また来たいなあ」

「…そ、そう。エビが…」



あまりにも想定外の返事にすっかりあわてて、うまく対処できなかった。

ただ、「また来たい」というフレーズが、遠まわしの「返事」とも考えられなくもないと思いなおしたぼくもそれ以上詮索することはやめにした。

とりあえず食事は済んだから出ようか、もしかするとそういうメッセージなのかも。

とっさにそう思ったぼくはレシートを手にとると、「さて」といいながらテーブルに手をついた。

嘉山リンもそれを合図に隣のイスに置いていたバッグやイーゼルやらを手にとった。



「ね、このあと、なにか予定ある? すぐそこのスパイラルホールでなんていう名前だったか、世界的に有名な写真家の個展やってるんだけど。ちょっと寄っていかない?。それとも、もう見ちゃった?」


うわずった声をごまかそうとぼくはピエロみたいに両頬を引きつらせながら満面に笑みを作った。

嘉山リンの口がかすかに動いた。

と同時に、あろうことかぼくは立ち上がりざまイスを引いてしまった。

床を引きずるイスの音が天井の高いホール中に響き嘉山リンがなにを言ったのかぼくにはまったく聞き取れなかった。

正確には嘉山リンが何かいったのかどうかもわからなかった。

ぼくは引いたイスを投げ飛ばしたかった。

隕石に当たって死んだ人がいたが、ぼくの一生のなかでまさにダントツで最悪のタイミングだ。

彼女がなんと返事したのか、まさかもう一度同じ質問をするわけにもいかず、ぼくは彼女の返事をさぐるように横顔を凝視した。

しかし、嘉山リンはそんなぼくの詮索をかわすように荷物を抱えてレジに向かった。

あわててぼくは嘉山リンの後を追う。

そう、さっき表参道の沿道からこの店に向かうときのように。



嘉山リンはレジの斜め前に立つと肩にかけていた重そうな荷物の肩紐に両手をそえ、「ごちそうさまでした」そんな殊勝な表情でぺこりと頭をさげた。

地球を指の先っぽでくるくる回していたような嘉山リンの、「控えめ」な一面を見てぼくも彼女のお礼に応えるように両手を太ももの外側にぴたりと添えてうやうやしく頭を下げた。



「ほんとにごちそうさまでした。ああ、楽しかった」


嘉山リンの頬にまたほんの少し紅がさしている。

ぼくはいまにもマグマが噴出しそうなくらい高熱を発している右のわき腹を左手でそっとさすった。



会計する自分の背後に立っているのもバツが悪いと思ったのか、嘉山リンは先にそっとドアを開けて外に出た



「領収書はいかがいたしましょうか」

黒の蝶ネクタイをしたウエイターに聞かれ、一瞬勤務先の出版社名が口から出そうになったが、あわてて、
「いえ、領収書は結構です」


なぜか晴れ晴れとした口調でそういった。



いつもは平気で領収書を切るくせに。



きょうはあくまでもプライベートなのだ、デート代を会社に出してもらうわけにいかない、そういう思いが自然と口調に出たのだろう。


ぼくはちらっとドアのほうを見た。

ドアにはめこまれた赤と緑のステンドグラス越しに嘉山リンの白のジャケットがうっすらと透けて映っていた。

受け取ったお釣りを財布にしまいながら、ぼくは今後の計画を瞬時に練った。



さてどうしたものか。

とにかくあしたに連結した電車に乗るためのチケットを手に入れなければ。それにはあとひとつくらいイベントを用意したほうがいいのは間違いない。


近場のコースをいろいろ頭の中でたどった。

外苑前のル・シュブレで紅茶を飲む、乃木坂をのぼって国立新美術館へ行く、神宮外苑の中の静かなベンチに座って話しをする。

いくつかのルートがカーナビの画面みたいに浮かんでは消えた。

とはいえ、さっきの写真展の誘いに嘉山リンがなんと答えたのかわからない以上、実のところ次の作戦もたてようがなかった。

ふと視線を感じて横を見ると、スパークリングワインをトレイに乗せたウエイターがいぶかしそうにぼくの顔をのぞきこんでいる。あわててぼくは出口に向かった。





たぶん。たぶんだが、彼女の性格から推察するに外に出たとたん「ねね、スパイラルホールってどっち?」あるいは「あーあ、せめて一日前に誘ってくれてたらさびしくひとりで観にいったりしなかったのに」あるいは「ごめんね、絵描きのくせに写真興味なくて。ほかにオススメのスポットってないの?」。そんなふうになにかしらのリアクションを見せてくれるはずだ。

きっと。

まさに他力本願だが、嘉山リンなら薄ら笑いを浮かべたぼくの顔を見たら浅薄な悩みなんかカンタンに察してくれそうな気がした。




まったく根拠のない確証に背中を押されドアを開けた。

ドアを開けた瞬間、熱帯雨林地帯のような強烈な陽射しが視界をさえぎった。まるで一時間ちょっとの短い間に地軸が傾きぐっと真夏に近づいたようだった。

めまいがして思わず倒れそうになった。手さぐりするように薄目をあけて足元のアスファルトに刻まれた自分の短い影を見てようやく目がなれた。


顔をあげると嘉山リンはいなかった。

あたりを見回しても姿は見えない。

人ごみにまぎれるほど通行人はいないし、というより一瞬で数えられるほどしか歩道を歩いている人はいなかった。



もしや角を曲がった外苑東通り沿いの花屋のイケメンと話し込んでいるとか。




そう思って「トラットリア」のオープンテラス側をのぞいてみたが、ただチラチラと光の粒があたりに散らばっているだけだった。

「ねねこっちこっち。おもしろそうな店があるよ」そういいながらふいに路地から顔を出してくるシーンに備えてぼくは笑みを絶やさなかった。

しかしなかなか嘉山リンは顔を出さない。急に右のわき腹が痛くなってきた。

痛みが激痛に変わらないようぼくは左手でわき腹をわしづかみしながら探す視界の範囲を半径十メートルから一気に百メートルまで広げた。

アフリカの広大な原野で一匹の雌ライオンを探すようにぼくは目を細めてあたりを見渡した。

笑みを作っていた表情筋はいつしか弛緩し唇がかすかに震えているのが自分でもわかった。

六車線ある目の前の二四六号線の反対側に目を凝らしたときだった。

胸につまっていた息のかたまりがふーと口から漏れた。空に続く白い階段のような長い横断歩道の先で、嘉山リンがぼくに向かって子供みたいに大きく手を振っていた。

ほっとしたことで全身の緊張感が水みたいに流れ落ちて身軽になったぼくは嘉山リンに負けないくらいその場でジャンプしながら大きく手を振った。

急いで横断歩道を渡ろうと足を踏み出した瞬間、けたたましいクラクションとともに、洪水のように車が左右を流れ出した。

それまで車をせきとめていた信号が青に変わったのだ。

ぼくはあわてて後ずさり、遠くからでもわかるように大げさにバツの悪そうな顔を嘉山リンに見せた。

ワンボックスカーやバスなど車高が高い車が通るたび嘉山リンの姿が視界から消えるのがもどかしかった。

まるでパラパラ漫画を見ているように嘉山リンの振ってる手が一コマずつ動いていく。

なぜ嘉山リンが先に横断歩道を渡ったのか、そのときはさして考えもせず、とにかく一分一秒でも早く目の前の黄河のような幹線道路を渡りたくて気だけがあせっていた。

そんなぼくのはやる気持ちをあざわらうように車が猛スピードで視界を横切っていく。



決して越えられない長大で深淵な海溝のようにぼくと嘉山リンの間に二四六号線が横たわっている。

ぼくは見失わないように背伸びしながら車のすきまから嘉山リンを見ていた。

するとそれまで子どもが観覧車の上から母親に手を振るように両手いっぱいに振っていた嘉山リンの手がコマ送りでしだいに下がっていった。

同時にぼくのわき腹がギリギリとしめあげられていく。

両手がだらりと下げられると、こんどは右手だけがゆっくりゆっくりあがっていくのが見えた。




ダメだ、ダメだ、ダメだ、手をあげちゃダメだ! ダメ…。




対岸にひとり取り残されたぼくはどうしたことか必死にそう祈った。

わき腹の激痛は全身をかけめぐり立っていることもままならない。

それでもぼくは嘉山リンを真正面から見つめ祈った。

しかし、嘉山リンの右手は強い力にあらがうようにゆっくりと確実にあがっていく。

右手が胸のところでぴたりと止まったとき、さっきまではしゃいでいた喜びに満ちた顔からは笑みが仮面をはぎとったように消えていた。

スローモーションで右手が小さく左右に振れた。

その瞬間、耳からすべての音が消えた。ぼくはおぼれそうだった。

東京の真ん中で息ができず、鼓膜が水圧で圧迫され、半開きの口から水がどんどん流れ込んた。

酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせながら、ぼくはなにか叫んでいた。

「なぜ? どうして?」

 同
じフレーズがバカみたいに何度も何度も頭の中でリフレインしている。

目の前を時間のトンネルを駆け抜けるように規則正しく車の列が流れていく。 

一瞬、リンの頬が光った。灼熱の砂漠に湧いた一筋の湧き水のように。
 


リンも、おぼれている。
 



ぼくはそう思った。
 
Tシャツにプリントされた象の耳のあたりで力なくひろげられていた手のひらがわずか一日しか咲かないムクゲの花のように小さくしぼんでいく。

そして嘉山リンはそっと背中を向けると、二四六号線と交差する路地に向かって歩き出した。

その動きはブラックホールに吸い込まれる直前の人間のように恐ろしく緩慢で止まっているように見えた。実際、リンの小さな背中はしばらくの間ぼくの脳裏に焼きついていた。

路地を曲がるとリンは、ゆっくり歩を早め、やがて駆け出した。

スコールに追われるみたいに。

そして街路樹の葉のすきまに白い残像を残して、消えた。





ぼくは霧の中で立ち枯れした木のようにただそこに立ちすくしていた。

やがて信号が青になり、三人組のOLとスーツ姿のビジネスマンがふたり道路に塗られた白線をまたいで渡っていった。

しかし、ぼくは足が前に出なかった。

全速力で走ればまだ追いついたかもしれないのに。

追いつく自信はあったのに。

でもぼくの足はかたくなに動こうとしなかった。

別に筋肉が硬直していたわけじゃない。足が前に出るのを止めていたのは、自分の意思だった。

リンはぼくとのつながりを絶った。

はっきりと目の前で。


なぜ? 



理由はわからない。わからないが、明らかに自分と彼女の時間が交差することを拒んだのだ。

ぼくはただ、あるじがいなくなったヤドカリの殻みたいに、

寄せる波にゆらゆらゆられながら、リンが消えた街路樹の向こうをいつまでもじっと見つめていた。










アスファルトに焼きついた一瞬の記憶だけを残して嘉山リンがぼくの前から消えてから一度だけ、街で嘉山リンを見かけた。

ユキナの運転する車が三軒茶屋の交差点で信号待ちしているときだった。

ぼくは助手席を倒し、ビルとビルの隙間を流れる雲をぼんやりながめていた。

せかすように無機質な音が通行人の背を押していた。

ぼくはなにげに頭の下に腕を差し入れ首を折り曲げた。

車の窓の下のほうをススキの穂のように交差点を渡る通行人の頭が左から右に動いていた。

気が付くとそのひとつをぼくは必死に目で追っていた。

ボーイッシュな髪型、木に巻きついたツルのようなくせ毛、ほんのり褐色を帯びた華奢なうなじ、そしてこぼれおちそうなくるくる動く大きな目。

横顔しか見えなかったが、嘉山リンに間違いなかった。

いや確信がもてるかといわれると、一瞬躊躇したのは事実だった。

ひとつだけ、嘉山リンっぽくない雰囲気が漂っていたのだ。

どんな、と問われると自分でもはっきりとはわからなかったが、とにかくあのときの、あの日の嘉山リンにはない翳(かげ)を感じた。



決して太陽の光が届く事がない月の裏側にいるような、宇宙のずっとずっと底のほうに落ちてしまったような、パンドラの箱の中でただじっと時間が過ぎるのを待っているような、小さな脆弱な息遣いが聞こえてきそうだった。肩にかけた大きなカバンの紐を右手でしっかり握り、ほんの三メートルほど先の地面を見て、流されるように歩いていた。




ぼくはたまらず両手でジーンズの太ももを握りしめた。

そしてかさかさに乾いた唇をぎゅっと噛んだ。外苑の街路樹に消えたあのときと同じ、フロントガラスの右隅にいまにも消えていきそうな嘉山リンをつなぎとめようとぼくは身を乗り出して小さな背中を追った。

「なに? どうしたの?」

豆粒みたいなリンの姿が、人ごみに、沈んでいく――。

「ねえったら。どうしたのって聞いてんでしょ。とり憑かれたみたいな目して。誰か知ってるひとでもいた?」
「…ううん」

「なによ、ううん、って」

「…うん」

「もう。ぜーんぜん心ここにあらずって感じ。ザリガニでも見つけた?」

「うん…、え? ザリガニ?」


ザリガニと聞いてぼくはようやくユキナが話しかけていたことに気づいた。

「きゃはは。ほんと、いまさ、トオルが飼ってるかわゆいかわゆいザリガニちゃんをながめてるときのさ、あのヘーンな目になってたよ。マジで」

「ヘン」に盛られたアクセントには嫌味がたっぷり込められていた。

「ザリガニ」

自分でつぶやいてみた。そして、それっきり言葉が出なかった。



 
 

ときおり、夜風に吹かれながら水槽のなかでうにうにと動くアメリカザリガニを見ていると、あれは夢だったんじゃないか、とふと思うことがある。


幻影。


すべての夢はどこからともなく生まれ浮遊しそしてわずか一日で心の中にぽっかり開いたブラックホールみたいな穴の中に吸い込まれて消える。

嘉山リンもそうした夢の中に現れた幻影にすぎず、本来ならあっという間に消えてしまうはずだったのが、なぜか記憶のひだに焼きついてしまった。


もしすべての夢が消えずにいつまでも頭の中に残っていたとしたらあっというまに頭がパンクしてしまうだろうし、あるいは嘉山リンのことなんか、小学校の給食で出たはじめて見るデザートくらいにしか覚えていなかったかもしれない。



たったひとかけらだけ残った夢の残像。

たぶん、ぼくはこれからも一生消えない心に刺さった針のような夢の残像を抱えて生きていくんだろう。



かりかりとプラケースを掻いていたアメリカザリガニがにゅうっとはさみを突き出した。

それを見て思わずぼくは泣きそうになるのをごまかすように、苦笑いした。


(了)



2016年02月16日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』#07

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こんな華奢な体のいったいどこにいろんな知識が吸収されるのだろう、ぼくはばれないようにそっと嘉山リンの上半身をながめた。

嘉山リンが大きく口をあけサラダ菜を口の中に押し込んだ。

同時に首の筋がきんと浮き上がった。

うっすらと細く青い血管が透けて見えた。

小さな体を小さな心臓や細い血管や薄い皮膚やうっかり切り傷をつけられた指や重力に反してころころころころ動く目玉や細い体におさまり切らない膨大な好奇心なんかが支えあっている。


 
ふいに口から息がもれそうになってあわてた。

たったいま気づいたが、嘉山リンの頬にうっすらと紅が差している。

店の中が熱いのかあるいは別に理由があるのか。



 
二四六号線と交差する外苑東通りから車のクラクションが聞こえた。

ふたり同時に通りに顔を向けた。

きらきら光るアスファルトの上を見たこともないオープンカーが猛スピードで右から左に走り去った。



「知ってる? ブラックホールに人間が吸い込まれるときってあまりにも速過ぎて見てるほうは止まって見えちゃうんだって」

吸い寄せられるように嘉山リンの顔を見た。嘉山リンはしかし横を向いたままだ。

「ものすごい重力でなんでも吸い込んじゃうんだけどあまりにも吸い込むスピードが速すぎるからなんだって」

話の内容がめまぐるしく変わるのは尋常じゃない好奇心のせいだと理解したぼくは話の先の展開を気にすることなく聞いていた。

「ひとの記憶もそんなものなのかなって」

「記憶?」

「そう。時間ってけっして止まることなくいっつも一定の速さで過ぎていくでしょ。でも楽しいときはあっという間に時間が過ぎるし、たいくつなときは死ぬほど時間がたつのが遅く感じるし」

「うん」

「あそこの席で新聞読みながらひとりでお食事してるひとと、わたしたちとは時間の進み具合が違うじゃない?」


嘉山リンの目線を追うとカウンターでひとりランチを食べている初老の男性の姿が目に入った。


「うん。そう、かな?」

「時間が進むごとにあっという間に過去に吸い込まれていく記憶の断片のなかに、もうほんとにその時間が一瞬でもかまわないんだけど、ずっととどまっていられたらいいなあ、って思うことがある」

「思いっきり楽しい、って感じてるときとか?」

「でもそんなときって逆に没頭しちゃってるからなーんにも考えてないんだよね。いつの日か振り返ってまさに過去に吸い込まれそうになるその寸前のところで止まっている自分をずっと見ていられたらいいなあ」

「そのー、ブラックホールに吸い込まれる瞬間のような記憶の断片、だっけ。過去にそんな記憶が?」


まるで波ひとつない山奥の湖畔の淵に座って話しているようにぼくは静かに聞いた。


「ない」

息を吐くように嘉山リンがいう。

「小学校一年生か二年生のときだったかな。ナカモトさんっていうおじさんがよくママに会いにきてて、ある夏の日ナカモトさんとママとわたしの三人で島に行ったの」


断言したばかりの「ない」とどうリンクするのか、父親はどうしたのか、あるいはまったく別の話がはじまるのか、そんなよけいなことはいっさい聞かずぼくは話しをさまたげないようにナイフとフォークをそっとハの字に置いた。

「そのときは貧乏だったから沖縄とかりっぱなリゾート地じゃなくて、たぶん伊豆とか三浦海岸とか近場の海だと思うんだけど、とにかくその日は天気がよくて。あまり覚えていなけどナカモトさんが手漕ぎボートを借りてきて三人で島に行ったのね。島といっても誰も住んでないこんなに小さな島で、そこの砂浜がもうびっくりするくらいきれいだった。なんていうか宝石箱をひっくり返したみたいにきらきら光ってて、見たこともないきれいな貝殻がいっぱい落ちてた。わたしは夢中でその貝殻を拾ったの。それこそ夢中だった。まわりに誰もいなかったから、もしかすると夏休みとかじゃなくて平日だったのかもしれない」


そんな絵葉書みたいな光景は確かにぼくの記憶にも一枚や二枚はある。


「で、砂まみれになって両手いっぱいに貝殻を拾ってたらどこからかわたしを呼ぶ声が聞こえるの。立ち上がって沖を見るとママとナカモトさんがボートに乗って手を振ってるのが見えた。ナカモトさんは笑いながらオールをかいてどんどんボートは沖に向かって進んでいって。なぜそう思ったのかよくわからないんだけど、わたしはとっさに『捨てられた』って思った。わたしをこの島に捨ててふたりでどこかへ行く気なんだって。わたしは貝殻をあたりにぶちまけてわんわん泣いた。それからのどがおかしくなるくらいママを呼んだ。でもママは笑って手を振ってるの。たぶん必死で貝殻拾いに没頭してるわたしをからかってそんなことをしたんだと思うんだけど、そのあとどうなったかは覚えてない。もちろんじっさい捨てられたわけじゃなかったんだけど、なぜかそのときの絶望的な気持ちになった記憶だけが消えずに残ってる。おかしいでしょ?」



そういうと嘉山リンはぷりっとしたオマールエビにフォークを突き刺し大きくあけた口にほうりこんだ。

小さなビキニを着た嘉山リンがあんずあめを口に入れるシーンが一瞬脳裏を過ぎった。


「そんなどうでもいい記憶なんかとっとと消えてなくなればいいのに」

強く照りつける陽光に文句をいうように嘉山リンがつぶやいた。

ぼくはあわててフォークとナイフを手にもった。


「死ぬ瞬間はいい記憶ばっかり残ってたらいいな。わたしは」

一瞬、目線が下がった。

「もう過去にはもどりたくない」


しばらくの間、日の届かない海底にいるような重苦しい時間が過ぎた。

「だいじょうぶだよ」

「え?」

なんの根拠もなく「断言」したことが自分でもおかしかった。しかしいまさら「撤回」なんかできなかった。

「いや、嘉山さんならこれからいろんなことを体験したりしてさ、それこそどんどん忘れたくない記憶の断片が増えて、いやな記憶なんか入る余地なんかなくなるって」

「ありがと。やさしいんだね、簗瀬くんって」

トオルくんじゃなく簗瀬くんと呼ばれたことにぼくは少なからず動揺した。

「でもなあ。わたし、基本はペシミストなのかなあって思うことがあって。すぐにね先のこと先のことって考えるクセがあるんだけど、こうなってこうなってそしたらこうなるでしょ、あーやっぱこうなるんだーあー悲しいーって最後はなっちゃう」

「妄想のエンディングはいつも雨がふってる?」

「そうなのそうなの。それもね、もうどしゃぶり。で、シミュレーションしてどじゃぶりなのがわかってるわけじゃない。だから当然傘もって行かなきゃって頭ではわかっているくせに晴れわたった空をみてるうちにまいっかって。だからいっつも最後はもうずぶぬれでたいへんなんだよねー」

「はは。でもそれってペシミストなのかなあ。なんだか真逆のような気もするけど」

「ま、いいじゃない、どっちでも」


投げやりな言い方がおもしろかった。


「確かに。それにさ、ブラックホールに吸い込まれる人間を見ることなんか、未来永劫ないと思うし」

「なにそれ?」

「いやほら、さいしょの話。過去に吸い込まれる記憶の断片うんぬんの話の前ふりで嘉山さんがいったこと。そもそもブラックホールって、アインシュタインが相対性理論で予言しただけで目に見えない天体だから実際に観測することってできないんだよね」


話をつなぐのりしろのような軽い話題のつもりだった。

しかし、オマールエビを串刺しにしたフォークを空中で静止させたまま嘉山リンがくるっとぼくに瞳を向けた。


「え?」ぼくは思わず身構えた。

「わたしは宗教家じゃないけど、でも見えないもの以外は信じないってことはぜったいない」

「…うん」

そう強い口調でいわれたらうなずくしかない。

「どちらかといえば見えないものにこそ真実が隠されてるって思う」

「うん」


串刺しオマールエビに寄っていた目の焦点がふいにぼくの顔の上で交差した。

ぼくは緊張のあまり生唾を飲み込んだ。


「って誰かいってたっけ」


そういって舌をちろっと出した。負けず嫌いなのかエスプリに富んだ性格なのかいまひとつつかみかねたが、少なくともそれが嘉山リンへの興味をさらに深めることはあっても障害になることはこれっぽっちもなかった。

「ごめんね、なんかわかりにくいよね、わたしの話って。よく友達からもいわれる。リンは自分の中の自分と話してるみたいだって」

そんなことない、わかりやすいかどうかといえばたぶんわかりにくいのかもしれないけど、でも長くつきあっていればきっと…そんなフォローをしようとしたぼくを制するように、

「ねえねえひとつ聞いていい? トオルくんてどんなタイプの女性が好き?」


食べ終わった皿を片付けてもらったテーブルで頬杖をついた嘉山リンがぼくの目をのぞきこんで聞いてきた。

ぼくが反射的に背中を伸ばすと、

「あ、ごめん、へんな意味じゃなくて。じゃどんな意味だよって? うーんとちょっとだけ興味があるっていうか。そうそう、実はね、会ったひとには必ず聞いてるの。似顔絵描くときに参考になるんだよね、意外と」

理由がなんであろうと嘉山リンの「好き?」という響きがぼくのわき腹あたりを熱くさせた。

そのときはじめて楢崎こずえのいったことを実感した気がした。

ぼくの場合はどうやら「わき腹」が反応するらしい。



嘉山リンは自分がした質問にあせったようすを「見せ」たが、ひじにあごをのせたポーズは変わらず、本当にあせってる感は伝わってこなかった。

ぼくの反応をみて楽しんでいるようにも思えたが、好奇心がぎゅっと凝縮された大きな黒目を見てると、逆に照れ隠しのようにも思えなくもなかった。

「質問の答えにはなってないかもしれないけど、本を読んでるときの女性の顔が好き、かな」


ぼくは真正面から嘉山リンを見つめてそういった。嘉山リンがそんな顔をしていたのだ。


「ふーん、そうなんだ」


そういったっきり嘉山リンは口を真一文字に閉じまっすぐぼくを見つめた。

ころころ動いていた目玉が凍りついたようにぴたっと静止した。そのときだ。

九千五百十二日生きてきた経験が、ぼくに、いま、このとき、この瞬間を記憶せよ、と命令した。

わき腹が焼きごてを押し当てられたように熱い。

よく見たら、頬杖をついていたと思っていた嘉山リンの頬は手のひらからかすかに離れていた。

そのかすかな隙間が、ぼくの薄皮のような理性を破った。




「嘉山さんは? 好きなひと、いる?」




手順として踏まえなくてはならないであろう百ぐらいの質問をすっとばして、遠回りした歩道橋から飛び降りるようにぼくの口はかってに核心部分について質問していた。

とたん、嘉山リンは唇を歯の裏側に入れ少し困った顔をした。

さっき通りの向こうで見た、もうひとりの、妹をそっと見守る「姉」の表情になりまたすぐに消えた。

なんて答えたらいいか迷っている、それが如実に伝わってきたけど、それでもぼくは質問を撤回するつもりはなかった。

もっと困らせてやりたい、そんないじわるな気持ちがあったのも事実だった。

嘉山リンがぼくのわき腹を熱くさせたのと同じように嘉山リン自身も体のどこか、子宮なのか右の乳房なのか、肩甲骨なのかどこかはわからないが、赤く溶け出しまわりの部位と癒着しはじめていることは間違いないという確信がぼくにはあった。

だから嘉山リンがぼくをじらつかせるために質問をはぐからそうとしたりしても、そんな手には乗らない、という意思表示を、彼女の目玉に負けないくらいの力を自分の目にこめてじっと彼女を見つめ続けた。







2016年02月06日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』#06

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ぼくはカミナリに打たれたみたいに放心状態だった。

彼女はすべて知っていた。

そしてすべて了解済みだったのだ。

わざとキノコを連想させる髪型にしていたのも、それによっていじめられることも、机の落書きをぼくがこっそり消していたことも、なにもかも。わずらわしい連中と距離がおけてちょうどいいくらいに思っていたのだ。あのとき見せた笑みがそうぼくに教えてくれた。

松下木野子は自分の中でいろんなことを考え、悩み、消化し、納得し、喜び、悲しみ、生きていた。

ぼくは彼女のほんの一面しか見えていなかった。まだこどもだったぼくが「女性」のたくましさを知った瞬間だった。

いま目の前でガードレールに座り遠くを見ている嘉山リンの左目はあのときの松下木野子と同じ目だった。深い憂いを秘めた目。宇宙みたいに深い目。





渋谷駅のほうからクラクションが三回聞こえた。

嘉山リンは、相変わらず遠くの一点を見つめていた。

視線の端で嘉山リンの後姿を見ながら先の横断歩道を渡った。

十メートルほどまで近づき人波からはずれたところでようやく嘉山リンがぼくに気づいた。気づいたとたん嘉山リンの顔が一変した。

それまでは五つほど離れた姉のような表情だったのが、いま目の前で目玉をころころ動かして笑っている嘉山リンは奔放な性格の妹といった表情をしていた。

まるでふたりの嘉山リンが交互にひとつの体を使っているようだった。



「来てくれたんだ。それとも帰る途中でわたしに見つかっただけとか?」

そう聞く嘉山リンの目は笑っていない。

「こうして顔を合わしてるんだからその答えがどっちだってあんまり関係ないと思わない?」

いじわるっぽくそういうと嘉山リンが大きな口をへの字に曲げた。

その瞬間、ぼくと嘉山リンの波長がシンクロした気がした。午後の陽射しにあたためられた空気がビルの狭間で渦を巻き、ぼくと嘉山リンの間に突風を吹かせた。

松下木野子の笑った顔が風と一緒に空に舞い上がった。


「さっきの絵の続き、描いてもらいにきた」

ぼくのあとに似顔絵を描いていたノリのいい男との軽快な会話を、じつはぼくは心のどこかで妬んでいたことを、いまはっきり自覚した。ところが嘉山リンが意外なことを口にした。

「ごめん。もう描いちゃった」

「描いちゃった? 描いちゃったって…」

「わたしね、会ったひとの顔を一瞬で記憶できる特技持ちなの。だから本人が目の前にいなくたって顔のパーツひとつずつ思い出して描けるんだよね」

「そのわりにはタイで会った誰かと思いっきり間違ってたけど」

「そうそう、思い込みが激しいのがちょっと欠点かな」

チロっと嘉山リンが舌を出した。

「いくら記憶力がよくても思い込みが激しかったらプラマイゼロじゃん。まいいや。ね、見せてよ、激しい思い込みで描いたぼくの絵。あ、そうだ、その前にいっとくけど」

ぼくは大げさに腕を組んだ。

「髪が三つ編みだったりひげづらだったりメガネかけてたり鼻におっきなわっかつけてたりしてたら真剣に怒るよ。それは思い込み違いとかじゃなくてもう別人だから」

「頭から角が生えてたり鼻がこーんなに長かったり目が五つあったり?」

「それはもう地球人じゃない」

「あはは。でもね似顔絵って本人でも気づいていない特徴をどれだけ引き出せられるかが腕の見せどころなんだよ」

「ありもしない角なんか描かれたらそりゃ間違いじゃん」

「ザッツライッ。でもあれだなあ、頭の中のスクリーンに投影してたトオルくんと目の前の実物を見比べてなんとなく自信ついちゃった。自分の記憶力ってやっぱスゴイかも。うん」

嘉山リンはスケッチブックを胸の前でかかえしげしげと自分の描いた絵とぼくの顔を見比べた。スケッチブックを盗み見ようとしたら嘉山リンはあわてて胸に隠した。

「お昼、おごってくれるんでしょ、そのとき見せる。あっ、それともそんな時間が?」

「うん、じつは、八時までには帰らないと。編集会議あるし」

つまりまだ八時間以上あるってこと。

「八時? って夜の?」

「そう」

そういってぼくは左の口の端を少しあげた。

「ふーん」


ふーんって、それだけ?



ぼくは急に不安になった。

実のところ嘉山リンはただお昼をゴチになり似顔絵代をせしめたらさっさと帰ろうという腹づもりだったんじゃないだろうか。自分と嘉山リンの認識の違いが三百五十度くらいあるとか。


「ね、わたしあそこの店行きたいんけど、ダメ?」

嘉山リンは交差点の角を指差した。

ワインレッドの庇が歩道にはりだしたイタリアンレストランだった。このあたりは仕事でよく通るのだが、こじんまりした店構えのせいかあんな店があったことにたったいまはじめて気づいた。

レンガの外壁を伝うつたの蔓が店歴の長さを感じさせた。

「行ったことあるの? あの店」

「ううん。なんかエビがおいしそうだったから」

「エビが、ねえ」

ここからじゃどんなメニューがあるのかはわかならい。

たぶんぼくが来る前に下見にいったのだ。

そう思ったらいてもたってもいられなくなった。ぼくの心臓はあがったりさがったりでさっきからせわしなく動きまわっている。


「そう、そうかあエビね。いいねエビは。やっぱこういう日はエビにかぎるよね」

 
なにをいってるのか自分でもよくわからない。

「ねえ、そういえばさっきあげたザリガニどうした? 捨てちゃった?」


「捨てちゃった?」のセリフが艶かしくそして悲しく響いた。

「あ、いやいやいやいや捨てたなんて、あれね、あいつは(あいつ?)いまさっき取材したひとがね、料理評論家なんだけど、ザリガニ料理が大好きでどうしてもゆずってくれっていわれて。でも、これはぼくがいただいたたいーっせつなザリガニくんだからダメだっていったんだけど、そこをなんとかっていうもんだから、つい。あ、でもね、ほんっとに喜んでた。こんなりっぱなザリガニは見たことないっていって。ぼくからもお礼いうよ。ありがとう、おかげで取材もうまくいったし。しかし本当につくづくもったいなかったなあ。スパイス利かせてパスタに入れたりしたらおいしそうだったなあ」


こんどは楢崎こずえの受け売りだ。ザリガニをあげた経緯には多少誇張な表現が含まれているが、喜んでいたのと取材がうまくいったのは本当の話だ。

「ほんと? じゃあいいことしたんだ、わたし。あげたあとさ、考えてみたらこれから仕事だっていってたのに、あんなものもって仕事なんかできるんだろうかって心配しちゃった」

「あんなものって…」

ぼくのあげた素っ頓狂な声に、嘉山リンは、

「あはははは」

と無邪気な笑いで応えた。

そして、イーゼルやらスケッチブックやらをコンパクトに収納した手のひら大の黄色い象のアップリケがかわいい「商売道具」のカバンを肩にかけると、交差点に向かってすたすたと歩き出した。一連の動作にソツがなく、旅なれた感じがした。

ぼくも遅れまいとあわてて嘉山リンのあとを追う。



交差点の角に建つ「トラットリア」は教えてもらわなければなかなか視界に入らないほど青山通りに「埋もれて」いた。

外壁を覆うツタや歩道からは店内が見えない高い位置の窓や外壁と同じレンガ色の控え目な入り口が「死角」になっているようだった。

重厚な扉を開け中に入ると店内は意外と広かった。

正面に十脚ほどのイスが据えられたカウンター席、左側の窓沿いには四人掛けのテーブルがふたつ、右奥は歩道に面した全面ガラスの引き戸がすべて開け放たれ、午後の強い陽射しを浴びたふたり掛けのテーブルが六卓据えられていた。

十二時を回ったばかりだからかまだ空いてる席がいくつか目についた。


ぼくたちは申し合わせたように右奥の一番窓側、つまり歩道に面したテーブル席に座った。

生暖かい風がそっと店内に流れ込み心地よかった。


「オマールエビのランチ。わたし、アレがいいな」

席につくなり嘉山リンはカウンター上の小さい黒板に手書きされた「本日のランチメニュー」を手元で指さしてそういった。メニューを選ぶのもじつに手際がいい。

まさか、お店を下見にきただけじゃなくて味見までしたんじゃないだろうかとあらぬ「期待」をしてしまった。

「なに? なに笑ってるの?」

そう嘉山リンに指摘され、にやけ顔になっていたことに気づいてぼくはあわてた。

「いや、おいしそうだなって思って。テレビなんかでさ、おいしそうな料理を見たらつい顔がゆるんじゃうってことあるでしょ。ここのお店はグッドだね。さすがナイスチョイス」

嘉山リンに向けて小さく親指を立てる。嘉山リンも小さく笑って同じように親指を立てる。

「じゃ、ぼくも同じものを」

「同じのはダメ」

「ダメ?」

ぴしゃりとそういわれ、ぼくはびくっとした。

「ふたり違うのを注文してシェアすれば二種類の料理が食べられるでしょ」

「うん、そうだね」

 
シェアだなんて、まるで恋人同士だ。


けっきょく嘉山リンは鴨の燻製サラダとオマールエビの蒸し煮にドルチェがついたセットを、ぼくはオマールエビのラヴィオリとサーモンのカルパッチョを注文した。

どちらも千五、六百円と手ごろな値段だった。


まさかランチの値段までチェック済み? 


ぼくは嘉山リンの顔を盗み見た。

目玉がころころころがっている。

店の雰囲気を確かめてるようだ。

落ち着きがないというより好奇心を抑えられない、そんな目玉の動き方だった。



「あー、きょうがいい日でよかった」

店内を徘徊していた目玉がもどってきたと思ったら、唐突に嘉山リンは手を広げて小さく伸びをした。

小さなふくらみがTシャツの胸のあたりに現れぼくはあわてて目をそらした。

「いい日?」

「わたしね、『きょう』って好きなの。だって昔のこと振り返ったってしょうがないじゃない? きのうのことだってあんまり思い出したくないくらい。きのうは過去でしょ。あしたは未来で、過去のことを考えると切なくなるし、未来のことをあれこれ空想するのは好きだけどやっぱりなんだか空しいし。『きょう』ってすっごくリアルでしょ」


リアル。



「その好きな『きょう』であるところの『きょう』が『いい日』だったってこと?」

「だって、こんなステキなお店でこうしてお昼ごちそうしてもらえるんだもん」

「なーんだ、それだけ?」

「だけじゃないけど」


嘉山リンがつぶやくようにいった。



「でもさ、どうしようもなくふと昔のこと思い出したりしない? たとえば…つきあってた彼のこととか」

道路の向こう側へ渡るのに目の前の信号ではなくわざわざ歩道橋を渡るようにぼくはいま一番気になっていることを遠まわしに聞いた。


「うーん」

考え込んでいる彼女の表情のわずなか変化も見逃すまいとじっと観察した。

「おいしかった料理のこととかはよく思い出すかな。あー、これどっかで食べたアレと味が似てるー、とか」

「どっかのアレ?」

「そう」

はぐらかされた気がしながら、ぼくは笑った。

「ねえ、リンさんってさ、あ、リンさんって呼んでいい?」



聞こえなかったのか嘉山リンは答えなかった。

すくなくとも「いいよ」とはいわなかった。気が動転したのをごまかすようにぼくはコップの水を一気に飲み干した。


「いつもあそこで描いてるの?」

「ううん。きょうはたまたま。いつもテクテク歩いててピンときたところで描いてる」

「どんなときにピンと来るわけ?」

「うーん、きょうみたいなとき」

「あしたはどこで描くの?」

「まだ決めてない」

「きのうはどこで描いてた?」

「忘れちゃった」



まるで禅問答だ。
「きのうことは忘れたしあしたのことはわからない」。
ハンフリーボガードのセリフだが、しかしそれは彼女の流儀そのもののようだった。


「トオルくんってさ、あ、トオルくんって呼んでいい?」

「どうぞ」

ぼくはわざとはっきり答えた。

「お仕事は編集なんでしょ。なんだかさ、たいへんそう、編集者って」

「べつに。好きでやってるから」

「さっきトオルくんのあとに似顔絵描いた男の子がマスコミ志望だっていう学生さんだったんだけど、彼がいうには知らない人に取材したり原稿書いたり写真撮ったりイラスト描いたりレイアウト考えたりするんでしょ、編集のお仕事って。なんだが万能人間って感じ」


ぼくがいなくなったあとあいつとそんな会話してたんだ。


「えーとね、正確には原稿を書くのはライターさんだし写真撮るのはカメラマンだしレイアウト考えるのはデザイナーさんで、編集者がぜんぶやるわけじゃないんだよね」

「ふーん、そうなんだ」


腑に落ちないという顔でななめからぼくの顔をのぞきこむ。


「編集の仕事は、まあひとことでいえば現場監督、かな。企画を決めて書いてほしい原稿をライターさんに伝えてチェックしたり、どんな写真を撮ってほしいかをカメラマンに伝えたりどんな誌面にするかをデザイナーと考えたり」

「ふーん」

嘉山リンは何度目かの「ふーん」を口に出した。

「仕事といってもいろいろあるんだ。なんだか知らないことばっかり。っていうより生きてたら知らないことがどんどん増えていく気がする。こどもよりおとなのほうが知らないことが多いってへんだけど。わたしっていろんなとこ放浪してるでしょ、初めていく国や街でいままで信じて疑ったこともなかったことが簡単に否定されたり頭をがーんって固いもので殴られたみたいな衝撃を受けることも多いし。長生きしたらそのぶんだけ知らない世界がどんどん増えて、もう寿命で死ぬ前に頭がパンクしちゃうかも。そうなったら死んでも死に切れないなあ」



真顔で悩んでいる嘉山リンがおかしかった。

まるで世界中の学者が抱えている難問をひとりで背負っているようだ。


「それだけ好奇心が旺盛ってことじゃない? ふつうみんなそれほど深くものごとに関心もってないと思うし、知らなかったことを耳にしてもあとで調べようととりあえずメモしてそのメモをどっかに忘れてしまったり、メモしたことそれ自体を忘れちゃったり」

「それってすっごくもったいない」

「もったいない?」

「だってせっかく世界はこんなに広いんだよって教えてくれてるのに見て見ぬふりするわけでしょ。人生の半分はどぶに捨ててるって思う。わたしには信じられないなあ。わー、おいしそう」

そういって目の前に運ばれてきた鴨肉の燻製サラダにすかさずフォークを突き刺した。






2016年01月30日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』05

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「お腹に入れたんだから念願叶って幸せの絶頂にあるはずなんだけど、じっさい毎日が夢みたいに幸せなんだけど、こんどはその夢がいつか覚めちゃうんじゃないかっていう不安との格闘が始まる。夢から覚めないためにはお腹に入れた彼を口から出さないようにしないといけない。独占したいのね、女性はとにかく。もしそれが叶わないなら、死んだほうがましって思うくらい」


ふと、パトリス・ルコント監督の『髪結いの亭主』を思い出した。

ある日主人公のアントワーヌは女理髪師のマチルドに一目惚れする。

アントワーヌは彼女をくどくために毎日マチルドの店に通う。

はじめマチルドはアントワーヌに引かれながら彼の気持ちを受け入れようとしなかった。

しかし三週間後ようやくアントワーヌの求婚を受け結婚する。

ふたりは互いに深く愛し合い夢のような毎日を過ごすのだが、ある嵐の夜、買い物に行くといって飛び出したマチルドは荒れ狂う夜の海に身を投げる。
「あなたが心変わりして不幸になる前に死にます」という手紙を残して。


映画を観たときはマチルドの行動が理解できるようで実のところよくわからなかった。

楢崎こずえの話を聞いてたったいまようやくマチルドの行動の意味がストンと胸の底に落ちた気がした。

「男はどうなの? やっぱりペニスで考えるのかしら?」

「それは」


違う気がする。

どちらかというとペニスは体から独立した別な生命体で、意思伝達系も別々で、エッチなことばっかり考え自分の欲望を満たすためならどんなことでもしてしまいかねないやっかいな危険分子で…。


「昔つきあった彼に同じこと聞いたことがあるの。そしたら」

楢崎こずえがふいに視線を床に落とした。ぼくも彼女の顔から視線をはずした。

「彼ねこんなこといったわ。男には潜在的に母体回帰願望があって、勃起はそのシグナルなんだって。母親は女性の象徴で、あたたかい羊水につつまれて癒されたいという本能が働いたとき、内蔵の一部である膣のなかにペニスを挿入することで擬似的な胎児体験をするんだとか。わたしにはペニスないから本当のところはわからないけど、けっきょく浮気がバレたときの免罪符にすぎなかったんだといまでは解釈してるけどね」

楢崎こずえは薄く笑った。


いろいろあったんだ。


ぼくは楢崎こずえの少し紅潮した頬を見てそう思った。


でも。

そうかもしれない。

ペニスは性的欲望を吐き出す装置にすぎずそれは自分の意思とは違うなんて、じつは単に自分の性的欲望をカモフラージュするための詭弁に過ぎないと、本当のところは思っていた。


もしかすると女性は男性を体の中に取り込み自分の内臓の一部にしたいと思うのが本能だとするなら、男性は女性の体内に入りたいという本能があるのかもしれない。

そしてペニスはその本能をつかさどる中枢…。

「いずれにしても女性と男性の体の構造は生殖機能を有するかどうかという点で決定的に違うわけで、そういう意味から男性にとっては女性はいつまでも深遠な宇宙のように神秘のベールに包まれていると歴代の哲学者や文学者はずっと言及してきました」

「神秘なんてかっこいい言葉で片付けられるほど女性はラクじゃないのよ。男性が女性を謎だっていうけど女性からみたら男性も同じくらい謎に満ちてるわ。もう謎だらけ。なに考えてるかまったくわからないときだってあるし」

語尾のトーンが少しあがった。

「ま、話がだいぶそれちゃったけど」

そういって楢崎こずえは一呼吸おいた。

「だから内蔵がおかしくなる前に足りない栄養素を補充してあげればいいのね。胃が反応したときは消化にいいコールドスープを飲むとか、肝臓が熱くほてっちゃうひとはお酒にたよったりしないできちんとタンパク質をとるとか、わたしみたいに腎臓にくるひとは逆にビールを適度に飲んでクールダウンするといいの。そうやってコントロールがきかなくなった体を癒してあげると好きな相手のことだってもっとちゃんと見られるようになるわ」


楢崎こずえはうまくまとめに入った。

でもぼくはボイスレコーダーに仕事をまかせ、依然として血で染まり舌をたらして迫ってくる真っ赤な肉塊と格闘していた。

「こんな感じでいいかしら」

それから十分ほどしゃべったあと楢崎こずえはせわしなく腕時計に目をやった。

つられてぼくも時計を見た。十一時ジャスト。

ぴったり約束の一時間でインタビューは終了した。

あいさつもそこそこに楢崎こずえはぼくたちを追い立てるように部屋から出すと即座にどこかに電話をかけはじめた。

はじめから終わりまでずっと楢崎こずえのペースだった。ラクな仕事だったが、編集者にとっては複雑な思いだ。

「なんだかやられっぱなしでしたね」

エレベーターのボタンを押したあと山本が少し口をとがらせていった。それには答えず、

「いまの話さ、なんか深かったな」

そういって取材内容が有意義だったことを強調してみせた。

そして山本に見つからないように、ふーっと長いため息をついた。

「深かった?」

「白で統一された明るい部屋なのになんとなく暗い洞穴にいるみたいな気にならなかったか」

「深い」話とはなんの脈絡もない展開になったことを山本はめんどくさくなったのかあえてつっこむこともなく黙ってエレベーターの通過位置を示す緩慢なランプの動きを見ていた。


ぼくは山本にうそをついた。

本当は「暗い洞穴」なんかじゃなく楢崎こずえの真っ赤な襞にかこまれた狭い膣の中にいるような気がしていた。

膣の奥は暗いトンネルがどこまでも続いているように思えて、それが楢崎こずえの情念の「深さ」とオーバーラップしたのだ。

ねっとりからみつく分泌液にまみれ締め付けられる感覚。

息苦しいのに抜け出したくない不思議な感覚。

ひとまわり離れた女性の内からにじみ出る色香にすっかり毒された気分だった。


昼飯をおごれとしつこく懇願してくる山本をやっとの思いで振り切ると、駆け足で246号線に出た。

さっきよりはだいぶ交通量が増えていたが渋滞するほどではなく、青信号のしたを乗用車やトラックがつぎつぎとすべっていった。



嘉山リンも男を丸呑みしたことがあるんだろうか。



ふとそんなギモンが頭をよぎった。

でも口を開けてケタケタ笑う嘉山リンの顔を思い出したとたん吹き出してしまった。




渋谷方向へ歩きながら通りの反対側の赤いブーゲンビリアが軒先に並べられた輸入雑貨店を探した。

店はすぐみつかった。

店先の前で右に左に行き来するひとや車の間に間に中洲に取り残された子猫のように嘉山リンが道路に背を向けガードレールに座っているのが見えた。

顔を横に向け246号線のずっと先をただじっとながめている。

小さい肩を包むように腕を組みピクリとも動かない。

嘉山リンの回りだけ時間が止まっているようだ。

なにかを決意し、なにかをあきらめ、そしてそれでもまだ迷いが消えない、そんなこまかい息遣いがつたわってきそうな表情。

ひとや車の動きがせわしない分、彫像のように固まっている嘉山リンが風景から浮き出て見えた。

ちょうど対面まできたところでぼくははっとして立ち止まり、嘉山リンの細い背中を真後ろからながめた。

じっと見つめていると胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。

見ていてかわいそうになったとかそんな憐憫からじゃない、あの華奢なからだにすいこまれそうで怖かった。

ぼくの位置からは左目しか見えなかったが、その左目は、ころころ動くこともなく、ぴたりと静止していた。


「リン」「リン」

二回目は口に出した。小さく。

いてもたってもいられずじっとり汗ばんだ手を力いっぱい握り締めた。

そのとき目の前がバチッと光った。

そして次の瞬間中学二年のときのクラスメートだった松下木野子の顔がくっきりとまぶたに浮かんだ。

いま通りをはさんで遠い目をしている嘉山リンと同じ目をした松下木野子。



松下木野子はいじめられっ子だった。

理由は「キノコ」という名前とそれを連想させる亀頭のようなボブカットにあった。

男子連中は「キノコ狩り」と称してみんなで松下木野子を取り囲み「キノコキノコ」とか「ポコチン」とか「胞子出せー」とか他愛もないことを口走りながらからかった。

いつのまにか女子もその輪に加わり、気がついたら松下木野子はクラス全員の目に「キノコ」という形態でしか見られなくなっていた。

ただそれはあくまでも「木野子」という名前から連想されるというだけで、見た目はキノコとは似ても似つかなかった。

それどころか目は大きくぷっくりした涙袋があり小さな鼻も小顔にはマッチしていてどちらかといえば愛嬌のある顔をしていた。

それが「木野子」という名前とおかっぱの髪型が見るものの目まで歪曲させ、ある意味いじめの対象になるべくしてなっていた。

当時ぼくは「木野子」という名前をつけた親をひどいと思ったが、なぜ本人があえて「キノコ」を連想させる髪型にしているのかわかならなかった。いやな思いをするならなぜ髪型を変えないのか、ぼくには理解できなかった。

そんなふうに心の中で擁護しながらもぼくもしっかりいじめる側の連中にまぎれこんでいた。

というよりいじめる側にいない人間はそのままいじめの対象とみなされる雰囲気があった。それでも少しずつ彼女への同情心が違う意味合いに変化してきたことに自分でも気づき始めた。

放課後、松下木野子が帰ったあと、いじめを主導していた男子グループが中心になって松下木野子の机を取り囲み、机の上に卑猥な落書きして、翌朝出校してきた松下木野子が机をがたがた揺らしながらがその落書きを消しゴムで消すというのが毎日の日課になっていた。

いじめ連中が落書きするのも松下木野子が消しゴムで落書きを消すのもいつしか教室のひとつの風景として映るようになりみんなの胸にひっかかっていた罪の意識も消えていった。

そうした中でぼくだけは松下木野子が朝、席につき筆箱から消しゴムを取り出し肩をいからせて落書きを消す光景を毎日後ろの席から上目遣いで見守るようになった。

休み時間もともだちがいない松下木野子はめったに席を離れることもなく、手にあごをのせ、窓の外を見ていることが多かった。

外をながめている目には暗い影はなく不思議なくらい澄んでいたのが当時のぼくには不思議だった。

ある日、いつものように松下木野子の机に落書きしていた連中が帰ったあと、ぼくも帰ろうと席を立ったときふと、松下木野子の机の中に持って帰るのを忘れたのだろう彼女の筆箱が入っているのが目にはいった。

ぼくは誰もいないのを確かめそっと机に近づき筆箱を引き出した。中には使いふるしたシャーペンやらマーカーといっしょに消しゴムが三つ入っていた。

ひとつは半分ほどの大きさで尖端が真っ黒に汚れていた。

あとの二つはまだ新しくビニールも破られていなかった。

ぼくは半分にすりへった消しゴムを高価な宝石でも触るように手に取りゆっくり鼻先に近づけた。

黒鉛にまじってほのかにミントの匂いがした。その消しゴムを指でいじりまわし、手のひらでぎゅっとにぎってみたりした。

そのあと、松下木野子がいつもするように席にすわりその消しゴムでまだ新しい落書きを消し始めた。

何度も上書きされたその落書きはなかなか消えなかった。

ひとしきり消して筆箱に消しゴムをもどすと机の中にしまった。 

翌朝、出校してきた松下木野子は机に座り一瞬怪訝な顔であたりを見回すと何食わぬ顔でノートを広げた。

その日からぼくは自分の消しゴムで落書きを消し始めた。

ひとり教室に居残り彼女の机の落書きを消し続けた。

そんなことを一週間ほど続けた金曜日。

いつものように落書き連中やおしゃべりしていた女子グループたちが帰ったあと、作業に取り掛かろうと消しゴムを手にしたそのとき、教室の前の出入り口から帰ったはずの松下木野子が入ってきた。

そしてまっすぐぼくのほうに歩いてきて、ぽかんと彼女を見あげているぼくの机の前に立つと、

「ありがと。わたしはだいじょうぶだから。気にしなくていいよ」

そういっておだやかに微笑み手にもっていた真新しい消しゴムを差し出した。

彼女の意図がわからず固まっていると松下木野子はぼくの机の上に消しゴムを置き、くるっと後を向いて入ってきたときと同じ歩調で教室を出て行った。





2016年01月26日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』04

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「『クロスメディア』の簗瀬さまですね、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

彼女のあとに続き部屋を見回す。

オレンジ色で統一されたおちついた色調の部屋だった。

クロスだけじゃなくデスク、イス、それにステイショナリーやパソコンの液晶モニターまでオレンジ色で統一するという徹底ぶりだった。

後からついてくる山本をふりかえると、あたりにめくばせしてうなずいた。



奥の部屋に案内され驚いた。

こちらは白で統一されているのだが、ソファーとガラステーブルと天井を照らすフロアスタンド以外なにもなかった。

突然ぽっかりとあいた白い空間に迷い込んだような錯覚に陥った。

部屋の中央のソファーにはチェーン付きめがねをかけ原稿に赤入れしている楢崎こずえが座っていた。

なぜか裸足だった。


映画のセットのような白亜の部屋に裸足の女。頭が混乱しドアの前で突っ立っていると、

「ごめんなさいね、ふだんは目黒の自宅で仕事してるもんだから。ここは取材用っていうか、ごらんの通り殺風景でしょ。わたし的には散らかってるほうが落ち着くんだけど。なーんてね」

はずしためがねを首からさげテーブルに散乱していた書類を片付けながら楢崎こずえは自嘲気味にそういった。

「自宅の部屋なんてそれこそしっちゃかめっちゃかなのよ。部屋に帰ってくるたびに、ああ結婚しときゃよかったってつくづく思うわ」

旦那はそうじ係?

「そんな。まだまだおきれいだし立候補する男性はいっぱいいるんじゃないですか」

「あら、うれしい。じゃあなた結婚してくださる?」

この女性におべっかは通じない、ぼくはそう悟った。

「とりあえずどうぞお座りになって。ずっと立ってるのも疲れるでしょ」



楢崎こずえは笑いながら目の前のソファーに手招きした。

名刺交換しソファーにすわる。

ル・コルビジェか、高級感が太ももあたりにじんじん伝わってくる。

「えーと、写真撮るのよね。じゃあ履いたほうがいい?」

そういって裸足の足を指差した。

「そ、そうですねえ」

裸足でインタビューを受ける楢崎こずえも雑誌的にはありかも。

と思ってる間にさっさとソファーの下からパンプスを取り出し履いてしまった。パープルのチュニックアンサンブルに白のクロップドジーンズというファッションはとても四十過ぎには見えない。膝丈のジーンズから伸びるすらりとした脚は二十代にも負けない色気をふりまいていた。


「えーでは早速ですが」

そういってテーブルに置いたボイスレコーダーのスイッチを入れようとしたときだった。

「なに、それ」

「え?」

「ほら、その手にもってるやつ」

「あ、こ、これは、ですね」

ほんの数分前まで閉まりの悪い蛇口みたく体中から緊張感が漏れ出ていた反動から、いまだにギアアップができずにいたぼくは楢崎こずえに指摘されるまでザリガニのことなんかすっかり忘れていた。

そもそもザリガニがはいったビニール袋を手に著名人のインタビューにのぞむこと自体、冷静に考えればありえなかった。ぼくの頭は依然砂漠の熱に浮かされていた。

「ザリガニでしょ。アメリカザリガニ。それ、わたしに?」

「あっ、ええと」

「うれしい。ザリガニ大好きなの。フランスではエクルビスっていって高級食材なのよね。むかしニースにいったとき食べたザリガニのコンソメジュレがものすっごくおいしくて。それ以来病みつきになっちゃったのよね。いまでも時間があるときは甥っ子つれて長野までザリガニ採りにいってるのよ。それにしてもよくわかったわね。わたしがザリガニ好きなこと。どこかに書いたかしら」

「はあ、まあ」



いるんだ、ザリガニ好きなひと。




「お口ににあうかどうか。塩茹でしてサラダに入れたりするとおいしいですよね」

嘉山リンからの受け売りをそのまま口にした。楢崎こずえの目が一瞬光った。

「そうね、わたしは香辛料で炒めてパスタにまぶして食べるのが一番好きなの」

「ああ、それもいいですねえ」

嘉山リン、ありがとう。きょうの取材はなんだかうまくいきそうだ。ぼくはつくづくきょうという日がツイてることを肌で実感した。

ビニール袋ごと楢崎こずえに手渡した。ザリガニが水の中で跳ねる。「恋敵」もいざ手放すとなると少しさびしい気がした。

「まあ、りっぱなザリガニ。ここまで大きく成長するザリガニも珍しいわね」

「そうですね、ほんと、おいしそうで」

さっきまでザリガニが食べられるなんて知らなかったくせに、というよりそもそもザリガニをじっくり見たこともなかったとは思えない自分の口ぶりに自分でもあきれてしまった。

「ちょっとーシノブちゃーん」


さっき案内してくれたアシスタントの女性が慣れた手つきでザリガニを持っていった。

すっかり食材と化したザリガニを見送りながら、一瞬嘉山リンの顔が脳裏を過ぎった。

ほんのちょっと前に会ったばかりなのにもう何年も会っていないような気がした。

たぶんそんな心理状態が顔に出たのだろう。楢崎こずえは見逃さなかった。

「あれって、どなたかにいただいたとか? 彼女とかに」

「いえ、そういうわけでは。ど、どうしてそう思われるんですか」

ごまかすために逆質問してけむにまこうとした。

「ちょっと。ね。大切なひとからたいして好きじゃないものをもらって、でもそれを他人にあげることに少なからず抵抗を感じてるって顔してるから」

「ははは」

逆効果だと十分認識しながらも笑ってごまかすしかなかった。そんなぼくを冷めた目でながめながら、

「ごめんなさいね、あんまり時間がなくて。はじめてもらってもいいかしら」

そういって足を組みなおした。

「あ、はい、すみません。では早速ですが」

「あ、そうそう。写真は左からお願いね」

「え?」

三脚を立て撮影の準備をしていた山本に向かって楢崎こずえがいった。

山本は思わず手を止めぼくを見た。

じつは入稿の〆切まであまり時間がなく、作業時間を短縮するために出来上がりの写真を見る前に誌面のレイアウトはデザイナーと相談して事前に決めていた。

見開きページの右側にタイトルを入れ、左側に写真を配置する予定だった。

つまり向かって右向きの写真をメインにおさえるよう山本には伝えていたのだ。山本が目でぼくに指示を仰いでいる。

「なに? もうレイアウトが決まってるとか?」

「いえ、そんなことは」

ぼくは無意識に背筋をピンと伸ばした。

「今回は二ページでしょ。左向きの写真を右ページに入れて左ページにタイトル入れればしっくりいくと思うんだけど」

さすがに取材慣れしてると見えて、一番写真映りがいい角度をよく把握していた。

「はい、だいじょうぶです。では写真は左側からメインに撮らせていただきます」

そういって山本にも目配せした。山本も了解したとうなずいてみせた。

「ではきょうのテーマですが、メールで質問梗概をお送りしておりましたように『恋するメニュー』と題しまして恋愛中の女性に提案したい料理ということで」

「それってすごくおもしろいわよね。メール見てなるほどって思ったの。『恋するメニュー』か。すごく的を得てるわよね」

「あ、そうですか。それは、えーと、ありがとうございます」

「女性ってね、内臓で恋するの」

「そうですよね、内臓。えっ? 内臓?」

つい声が裏返った。

「わたしの場合はまず腎臓かな。このあたり」

そういってわき腹の後あたりをさする。

「はあ」

話の展開が読めず中途半端な合いの手を入れてしまった。

「このあたりがぽーっと熱くなるの」

「ぽーっと、ですか」

「そう。熱い玉でも入れられたみたいに。よく女性は子宮で考えるっていうでしょ。あれってまんざら間違ってないと思うの。医学上はありえないんだけど、好きなひとのことを考えると体の中のどこかが過剰反応するのね。ひとによっては肝臓だったり、すい臓だったり、十二指腸だったりとまちまちで。もちろんそんな特定の部位が、ってわけじゃないのよ。あくまでもそのへんが、っていう意味で。だって十二指腸がどこにあるのか実際よくわからないし」

「あの、ぽーっと熱くなって、そのあとどうなるんですか」

中学生のとき初めて女性の生理について教えてもらったときのようにぼくは興味津々だった。

「もっと好きになっていくと熱い部分がどんどん広がって、そのうち腎臓が大腸やら胃やらと癒着したみたいな気になって、それが肝臓や脾臓や小腸なんかとも癒着して、最後にはひとつの巨大な臓器になるの。体の中にどくんどくんって脈打つ真っ赤にふくれあがった肉の塊を宿した気になるっていうか」

昔見たスプラッター映画を思い出して気分が悪くなった。

「もうねそうなったら大変。自分でコントロールできなくなった真っ赤に膨張した内臓は赤い舌をチロチロ出して大好きなひとを丸呑みしようと機会をうかがうの。それをわずかに機能している理性でもってなんとか抑えようとする。まあそんなときってすでに正気じゃなくなってるけどね。息苦しくて冷や汗まで出てくるんだから」

好きな相手を自分の体内に入れたいというのは、男性の性器を膣内に挿入するセックスと同じイミなのだろうか。ぼくはストレートに聞いてみた。

「うーん、性欲とはまたちょっと違うのよね。なんていうか性器だけじゃなくて相手の手や足や内臓やそのひとの記憶までぜんぶ中に入れたいの」


なんて貪欲なんだ。


「ふふ。でもね、ふつうはそうなる前にちゃんとストッパーが働いて暴走しないように調整できるから、女性は。だって丸呑みしようと襲いかかると相手は逃げちゃうでしょ。そのへんの駆け引きが難しいのよね」



ぼくも決して恋愛経験がないわけじゃない。

ひとなみに女性をくどき、つきあって、ふったりふたれたりしてきた。

しかしいま楢崎こずえがいったような世にも恐ろしいスプラッターばりの女性を目撃したことは一度もない。

それほど自分に魅力がなくて「変身」するまでに至らないだけなのだろうか。それとも外見からは赤いチロチロした舌が見えないだけ?

「でもね丸呑みしたらしたでそのあとも大変なのよ」

 目を見開き楢崎こずえの大きくあいた胸のあたりを凝視していたぼくの顔をのぞきこんできてあわてて目をそらした。






2016年01月24日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』03


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冷静に考えればわかりっこないのだが、極度に冷静さを欠いていたそのときのぼくは、通行人の目にはギャグマンガのキャラクターのように映っているんじゃないかと思えて、手をかそうと近づいてきたスーツ姿の男性を片手で制してその場から一目散に逃げ出した。

いい迷惑なのはアメリカザリガニで、楢崎こずえの事務所が入るビルのロビーについたときにはビニール袋の水は半分に減っていた。

両膝に手をつき息を整えながらエレベーターのボタンを押した。

十二階で点灯していたランプがひとつずつ左に移動していく。
急いてる気持ちとは裏腹な緩慢な動きをながめているうちに、だんだんきょうの取材なんかどうでもよくなってきた。
取材どころか、仕事も、会社もすべておっぽり出して、たったいま嘉山リンが目玉をくりくりくりくりころがしながらノリのいい男の似顔絵を描いてるであろう表参道の沿道にもどりたかった。

そんな自分に喝を入れようと左右に頭を何度も振った。

いつのまにそこに立っていたのか、隣でエレベーターを待っていた女性が不審そうな目を向けあからさまに一歩後に下がった。

ジャケットの裾が破けザリガニを手にもって頭をぐるぐる振り回している人間が隣にいたら、たぶん自分も同じ行動を取っただろう。

楢崎こずえははやりのスローフードを提唱するフードコーディネーターで、本質に鋭く切り込む物言いが受けコメンテーターとしてもテレビや雑誌に引っ張りだこ状態の「時のひと」だった。若い女性から主婦まで支持層も幅広く、中高齢女性にライフスタイルを提案するウチの雑誌にはまさにうってつけのキャラクターだった。

今回の取材にあたっては編集部のあらゆるコネを使って手を回しようやく一時間のアポイントをとりつけたのだった。

そういった事情から楢崎こずえを待たせるわけには、ぜったいいかなかった。
エレベーターの位置を示すランプが二階から一階に移動したところでようやく、緊張感が足先からはいあがってきた。





 その日はとにかく朝からうわついていた。

午前中から楢崎こずえの取材があるとわかっていながら夜更けまでライターと飲み歩いていた不摂生ぶりをきれいさっぱり忘れさせてしまうほど朝起きたらいい天気だったとか、いつもはぐずぐず迷う服のコーディネイトが一発で決まったとか、酔って足蹴にして以来ケンアクな関係にあるお隣の大家の猫が出がけに「ミャーミャー」と二回も自分の顔見て鳴いたとか、そんなささやかな幸せが朝から連続し、頭の中にはずっと8ビートのアップテンポなリズムが駆け巡っていた。


 地下鉄を降り二段飛ばしで地上への階段を駆け上がると、片道三車線の246号線は車であふれていた。

ボンネットやフロントガラスに初夏の光が乱反射し砂浜のように光っていた。

歩道のアスファルトにも光の粒がちらちら飛び回り、あまりにもまぶしくてぼくはつい砂漠に倒れる星の王子様のように右腕で両目をおおった。

そんなアンニュイな気分にひたっているところへ、歩道を流れる通行人のすきまから嘉山リンがぼくを発見したのだ。


あやしげな霊感グッズ販売か、新興宗教の勧誘か、そんな押し売り的事情でもないかぎり女性から声をかけられるほど自分は個性的なふりじゃない。

そんなぼくが嘉山リンに指名されたとき、ぼくは心底きょうという日に感謝した。

厳密にいえば似顔絵代を巻き上げられるというビジネスが介在する関係といえばそうなのだが、嘉山リンと出会うための対価と考えれば別に安いものだと思った。

依然として自分の背後に身を潜め警戒しつづている女性を意識しながらエレベーターの中で嘉山リンとかわした会話をひとつずつ思い返した。

そしてあらためて嘉山リンの顔を頭に浮かべてみた。

嘉山リンには悪いが決して美人というわけじゃない。

仕事がらモデルやタレントはまじかでみなれていて「美人」に対する免疫は出来ている。

目は大きいが鼻は決して高くはないし、顔の表面積に比べ口のサイズは大きすぎる。

歯並びも右の八重歯が一本前に出ていて、眉だって、まつげも、肌も…。


そのときぼくは嘉山リンがほとんどノーメイクだったことに気づき、少し驚いた。

不思議なことに冷静に顔のパーツを分析していけばいくほど嘉山リンの顔がもやに包まれていった。

自分が嘉山リンに惹かれていることは、およそ間違いなかった。

しかしどこに惹かれているのかわからなかった。

嘉山リンと別れて一分一秒たつごとに呼吸が乱れ抑えようのない真っ赤に燃えたぎったマグマが胸の底のほうからせりあがってくるのを冷静に意識している自分を不思議に思った。



ふと、ステンレス製の扉に口角をもちあげ不気味ににやけた自分の顔と、それをじっと見つめる背後の女性の顔がゆがんで映っているのに気づき、あわてて目線をはずした。


固まったままの女性をエレベーターに残し十二階で足早に降りた。

楢崎こずえの個人事務所「kozue campany」の前にはすでにカメラマンの山本が待機していた。


「簗瀬さーん、おそいっすよ。こちらの御仁は待たせたら相当うるさいみたいっすよ」

 腕時計をたたきながら山本が眉間にシワを寄せている。

ふだんは時間にルーズでいつもぼくに怒鳴られる山本がきょうに限って時間通りにやってきたことが山本の楢崎こずえに対する緊張感を物語っていた。

「わりーわりー」

「わりー、じゃないっすよ、ほんとに」

「いやちょっとさ」

「ちょっと、なんすか。だいだいなんで取材だっつーのにそんな裾がやぶけたジャケットなんか着てくるんっすか。そんなボロ着てくるほど給料悪くないでしょ、簗瀬さんとこ」

 ぼくはあわてて破けた裾を背中に隠した。

「あれ、それなに? それ。ほら手にもってるやつ。うわっ動いてる。まさか、ザリガニ?」

 わかってる。いつも時間通りに来いだの、構図が悪いだの、早く写真をプリントしろだの、納品するときは350dpiに変換しろだの、いちいちうるさいことをいうぼくへの仕返しのつもりなのだ。

もちろんぼくは彼をいじめてるわけじゃなく、まだ若い彼を一日も早く一人前にしたいという思いからキツイ言葉が出てくのだ。

それは彼も十分承知していて、いまは彼にとってはそうしたうっぷんを晴らす数少ない機会なのだ。

「そ、ザリガニ。おまえ好き? ザリガニ」

「はあ? なんすか、その質問」

やっぱりそうなるよな。ぼくは内心ほっとした。ふつう即答なんかできないのだ。

「じゃいくか。待たせると悪いし」

 山本はあきれたといわんばかりに両手をあげ、機材の入ったジェラルミンケースと三脚を肩にかけた。ぼくも破けたジャケットを脱ぎ腕にかけてドアをノックした。

「失礼します」

 中に入るとアシスタントらしき女性が待っていた。



2016年01月21日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』02

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「ねえねえ、ちょっとー」

 振り向くが早いか、

「キミさー、ラーチャンナワンのとこにいたひとでしょ?」

 表参道で嘉山リンからそう声をかけてきたとき、今朝茹でた卵が半熟と固ゆでの中間よりやややわらかめという絶妙な茹であがりだったのと同じくらい、数ヶ月に一度めぐってくる「ちょっといい日」に用意されたほんのワンシーンにすぎないと思った。まるで幼馴なじみに声をかけるような他意のない口ぶりだった。

「えっとー、誰って?」

 信じられないことに、初対面の人間にまず疑念と警戒心でのぞむ編集者にはあるまじき性格のぼくが、知らず知らずのうちに、まるで幼馴なじみのようになれなれしく聞き返していた。

「ラーチャンナワン。ほら、タイのカンチャナブリでわたしが似顔絵描きのお仕事をさせてもらってた雑貨屋さんの店長。あなた、そこの店によく出入りしてたじゃない。あのころは生活費かせぐために店の雑用もやってたからなかなか声かけられなくて。わたしのこと覚えてないよね? あ、そうだ、ミリアがねいま日本に来てるんだって。よくあなたたちといっしょに遊んでたあの娘、こっちに親戚がいるとかなんかで。日本語の勉強してるらしいよ。ああ、なんだかなつかしいなあ、ね、また行きたいね。最近はあっち方面旅行してないの?」



アンスリウムみたいな女性だ。



彼女のうねうねと動く赤いくちびるを見ていてふとそう思った。エキゾチックな固くて真っ赤な葉。

黒目がちなくりっとした目でまっすぐぼくの目を見つめる嘉山リンはボーイッシュな髪に白のTシャツと着古されたジーンズが妙にマッチしていた。
木に巻きついたツルのような跳ねたくせ毛に首からさげた大きめアクセがあけっぴろげな情熱家という印象を与える。
あどけなさが残る顔はひとことでいうと「薄い」。

全体的に線が細いからそう思ったのか、そのときはよくわかならなかった。

そしてそんなふうにぼくに思われてることなんかおかまいなしに彼女は最初の質問の答えを真剣に待っていた。


「えーと、悪いんだけど、ぼくは行ったことないんだよね、タイには」

 うっそー! 彼女の大きな目がそう叫んでいる。

「もしかすると、いやもしかしなくても120%の確信をもっていうけど、ぜったいひと違いだと思う。そのラーチャンナワンってひとはいいひとなんだろうし、もしぼくも会ったことがあるならぜったい忘れないひとだと思うけどね」

 といったそばから産道から出てきたばっかりの赤ちゃんみたいな透き通った黒目で見つめられると、自分は本当はタイにいたことがあるんじゃないか、と思えてきた。というか、いなくちゃいけないような気がしてきた。

「ホント? ホントにいなかった? あ、ごめん、でもホント?」

 通行人にぶつかり謝りながら小首をかしげて一生懸命記憶の糸をたどる嘉山リンの目玉がくるくるくるくる動きまわる。


まるでビー玉のようだ。銀河をつめこんだような模様が入ったビー玉。


右上左斜め右下左上。変な話だが、目玉を動かすのを手伝ってあげたい、ふとそう思った。

そのとき自分の隣にいるもうひとりの自分がうでをこずいた。「おまえ、いたじゃん。ほら去年の夏。長い夏休み取ってさ」


そうだ確かに、いた! 断固として、タイにいた! 去年の七月ごろ、確かにラーチャンナワンやミリアといっしょに遊んだ。そして店先でキャンバス片手に観光客の似顔絵を描いてたキミのことももちろん覚えてる!


「そういわれてみると確か…」

「ゴメンねー。わたしって思い込みが激しくってさ。よく友達とかに怒られるんだ。そうそう、インドを放浪してたとき知り合ったマリって子がね、あ、マリはトルコ人と日本人のハーフなんだけど」


ぼくはなぜかほっとした。あやうくウソでウソを上塗りしていくとこだった。
でも、けっきょく彼女との接点はなかったことがぼくの気持ちを少し萎えさせた。

「ふたりしてムンバイの夜店でシンハー飲んでたらさ、そう、ふたりで五、六本は空けたかなあ、とつぜんマリが怒り出したの。『リン! あなたさっきからわたしのこと誰かと間違えてない? わたしはアイルランドのパブなんかいったことないしピエールだかなんだかイケメンのイタリア人だって見たことも会ったこともないんだから!』って」

「なるほど。そのマリって子とは話があいそうだなあ」

相変わらず目玉をくるくるくるくる動かしながら、指を突きたてあたかもマリが目の前の嘉山リンに怒鳴っているジェスチャーはなかなかの演技力で、通行人にはストリートパフォーマンスをしているように見えたかもしれない。

「わたしね、一度会ったひとがごちゃごちゃになっちゃうっていうか、自分が感動したこととか死ぬほど悲しいとかそんな出来事があるとみーんないっしょにそれを共有してるみたいに思い込んじゃうんだよね」

「そうみたいだね。でもさ話にリアリティがあってうちの上司の眠い話よりよっぽどおもしろいよ」

初対面のぼくでさえいっしょにタイにいたことになってるだから、彼女の思い込み病はかなり深刻なようだ。でも…。



でも、彼女と本当にタイに行ってたら楽しかっただろう。



「ほんっと、そっくりなんだけどなあ。あごの線とか茶色の目の色とか無精ひげの生え方まで。あ、無精ひげじゃないか。ごめん。そうそう、その首のほくろも確かあったし」

 ぼくはあわてて首をおさえた。そして嘉山リンの細かな観察眼に感心した。

「まあ、世界には自分とそっくりな人間が七人いるっていうし。どっかにうりふたつの自分がいてもおかしくはないと思うけど」

 なぐさめるようにそういった。

「じゃああとの六人のうちのひとりだったわけね、わたしが会ったのは」

合点がいったという顔をしながらこんどは突然思索にふけりはじめた。

「そのそっくりさん七人のルーツ調べたら、思いもよらないなにか共通点があったりするかもね」

「共通点? たとえば?」

「うーんと、そう」

嘉山リンの目線が中空をさまよう。目玉が世界旅行でもしているようにころころころころとまぶたの中をころがっていく。

「みんな魚が好きとか」


 はあ? 魚?


「魚が好きってことはカルシウムを多く摂取するからあなたみたいに歯がきれいで小骨を一本一本とるから性格は几帳面で、肉食系のアングロサクソンじゃない有色民族で」


 なるほど。ぼくがタイにいた気がするのも彼女が会ったそっくりさんから電波が飛んできて…そんなわけない。


「リンっておもしろいね。リンっていうんでしょ、名前。漢字はにすいの凛?」

 晩ごはん何食べる? そんなふうに自然と口が動く。さっきからぼくはどこかへんだ。嘉山リンから香ってくるスペアミントのせいかもしれない。

「ん? そうそう」

「苗字は?」

「え? なに?」

彼女のビー玉みたいな目はスケッチブックとぼくの顔をいったりきたりしている。

「あの、さ、ねえ、なにしてんの?」

ようやくぼくは彼女がスケッチブックになにか描きこんでいることに気づいた。

「あ、そのまま」

「あの、ごめん、ちょっと時間がないんだ。つれないけど。マジでもう行かなきゃ」


 心の底から本気でぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 しかし、ぼくの声がまったく耳に入らないようで、彼女は相変わらず遠くの果てしない原野をながめるような目でぼくの輪郭をなぞっている。スケッチブックの上の手はまるで違う生き物みたいに動きが止まらない。

「ゴメン、あと少し」

 さっきまでのトーンとは明らかに違うかたくなな口調にぼくは少し狼狽した。そして一瞬、テレビでよく見る左眉がつりあがった奈良崎こずえの顔が頭をよぎりぼくはかぶりをふった。

「あの、ホントごめん。似顔絵代は払うからさ。またこんど、ね」

「え?」


またたくまに彼女の表情が変わった。

こどもがおもちゃをとりあげられたようなひどく落胆した顔。あれほど悲しい顔をぼくは見たことがなかった。

いったい誰がそんなひどい仕打ちをしたのか! 自分で自分が許せなかった。


「そうだ、ねえ、これからどーっしてもはずせない仕事があって、それが終わったらまたここにもどってくるよ。そしたら似顔絵描きでも食事でもなんでもつきかうから。ね、それならいいでしょ」

 食事? どさくさにまぎれてぼくは自分でも予期せぬことを口走った。

「ははは。べつにいいって。そんなに気を使ってくれなくっても。うれしいけどさ。ね、名前教えて。またどっかの誰かとごちゃごちゃになるかもしれないけど」

 嘉山リンがトルコ人と日本人のハーフのマリに話したみたいに、どこか見知らぬ国の見知らぬ街で見知らぬ誰かに自分の名前を話して聞かせるシーンが頭をよぎってぼくは一瞬心臓がきゅっと縮んだ。

「簗瀬徹(やなせとおる)」

「やなせ? やなせって柳の…」

「違う。竹かんむりに」

「ごめん、漢字はヒンズー語の次ににがてで。ちょっとここに書いてくれる?」

 そういって彼女は握っていたペンと描きかけのぼくの似顔絵をよこした。なんの躊躇もない太い線でぼくの輪郭が引かれている。眉も鼻梁もはっきりと描かれていてかなりのイケメンだった。

もしかすると他人からは、少なくとも嘉山リンにはそう見えてるのかも、そう思うとなぜか小躍りしたくなった。

ただ、口元にどことなくはにかんだ笑みが浮かんでいて、すっかり自分の心の中を見透かされているような気がしたぼくは思わず目をそらした。


「そこの下のとこ。そこに書いて」


 似顔絵の下を指した彼女の細い指先にはバンドエイドが巻かれていた。きらきら光るネイルのビーズが白浜にまじって光る石英を思わせた。

ぼくはその指の先に触れたくなった。触れたくなって無意識に人差し指を出した。


「そう、そこ。小さくね」

 ぼくが指を差し出したのと同時に彼女は指をひっこめてしまった。

 漢字で名前を書きながら、

「ところで、リンの苗字は?」

 そう聞いた。

「あれ? まだいってなかったっけ。わたしは嘉山」

「カヤマ? うーみよーおれのーうーみよー、の加山?」

「なにそれ。えーとね、武士の士に口かいて加えるって字を」

「うーんわかんない。ちょっと待って」

 漢字はわかった。わかったけどぼくは嘉山リンが書く字を見たかった。
いったいどんな字を書くのかものすごく興味があった。
そして。その字をあとでなんども見かえしたかった。

いそいでバックの中をさぐっていると、

「ほら、こんな字」

 あろうことか、嘉山リンは自分の手のひらに「嘉山」と書いていた。少しあせばんだ手のひらに「嘉山」という文字が魚のようにゆらめいていた。指でつまんでもちかえりたかった。

「じゃあさ、仕事が終わったら来て。ホント? ほんとに来てくれる?」

ぼくは餌をついばむニワトリみたく何度も首を縦に振った。

「ラーチャンナワンやミリアのこととかピエールのこととか、もっとほかにもいろいろ話聞きたいし」

 リンがどこから来てどこに住んでて何を食べてどんな音楽を聴いてどんなひととつきあってきたのか。ぜんぶ、ありのままの嘉山リンのこと。

「…ふーん」

 嘉山リンがぼくの目の中を凝視する。
そのときはじめて嘉山リンがぼくのことを「見た」気がした。


「わたしもトオルくんのこと気に入ったし。待ってる。そうだ、ねね、これあげる。誰かにあげてもいいよ。今朝ね、池田山で写生してたら池からうにうにって出てきたの」

 そういうとガードレールに立てかけてあったキャンパスイーゼルやら麻のバッグやらをどけポールにひっかけてあったビニール袋を手にもった。中には水が入っていて底に青銅色の物体が沈んでいる。巨大な金魚かと思ったがゴテゴテついた固そうな突起物が目に入り一瞬たじろいでしまった。

「ほい。塩茹でしてサラダにまぶして食べるとおいしいよ。ねえ、トオルくんってザリガニ、好き?」

 嘉山リンがなにをいってるのかよくわからなかった。ビニール袋の中をのぞくとアメリカザリガニが片方の爪をぐいっと伸ばした。

それにしたって…ザリガニが好きかどうか突然聞かれて即答できる人間はそういないんじゃなかろうか。

 ぼくはうながされるまま、およおよと動くザリガニが入ったビニール袋を受け取った。

バルタン星人みたいな爪を大儀そうに突き出し、小さな足を小刻みに動かしている。

ぼくは長くのびた触覚を観察するふりをして、さっき嘉山リンの口から食べかけのキャンディーのようにポロリと出た言葉を牛のように何度も反芻していた。


トオルくん。



確かに嘉山リンはそういった。
漢字ではなく明らかにカタカナ。

「徹」を漢字で書くと画数も多いし二次元関数の公式みたいな重々しいイメージがあるが、嘉山リンの「トオル」は簡単に暗算できる一桁の足し算みたいな気安さがこもっていた。


そしてとつぜん思い出したように、

「え? 食べられるの? ザリガニって」

 そう叫んだ。

 いったいいつの話をしているんだといわんばかりに嘉山リンはポカンとぼくを見ている。

「ヨーロッパではふつうに食べてるし。ザリガニ専門店だってあるんだから。そうね、スパイス利かせて炒めてもいいよ。あ、ちゃんと泥抜きしてね」

そのとき、嘉山リンに調理されるアメリカザリガニが頭に浮かんだ。
まな板にのせられ頭部と胴体の間に包丁をつきたてられてるシーンが。そして次の瞬間、目の前でゆったり動き回るアメリカザリガニが心底憎らしくなった。

世界広しといえどもアメリカザリガニに嫉妬する人間なんてそういるもんじゃない。


「でも、コイツさ嘉山リンに食べられたかったんじゃないの? だって呼んだわけでもないのに池から這い出てきたわけで」


 なにをいってるのかもう自分でもさっぱりわからない。それにコイツって?


「うーん、別にわたしが食べてあげたっていいんだけど。やっぱり嫌い? ザリガニ」

「ううん、ぜんぜん食べたい。ホント」

「ぜんぜん食べたいって、へんな日本語。やっぱいやなんだ」

 そういって嘉山リンは目を細めてけたけた笑った。ぼくも、笑った。

 大嫌いなニガウリでも嘉山リンにもらったら極上スイーツくらいおいしい気がする。

「じゃ。またあとでね。たぶんお昼すぎくらいまではここで描いててる。でも」

嘉山リンの表情がヨソユキになった。

「もし仕事が長引いたりしてこれなくなっても気にしないで。あ、ねえねえキミー、似顔絵描かれてみない? あたしにー」

「えっ? に、似顔絵っすか?」

 嘉山リンに突然声をかけられ、腰からチェーンを垂らした学生風の男が素っ頓狂な声をあげた。

「いまなら千円でいいけど」

「せ、千円っすか? い、いやー、ど、どっしよっかなー」

 いま気づいたのだが、路上に並べてあるアジア系の子供の似顔絵やイケメンイタリア人のピエールらしき男性のブロマイドみたいな絵の前に「似顔絵 10分1500円」と書かれたプレートが置いてあった。

「マジ千円でいいんすか?」

「うん。じゃあそこに立って。ゴメンね、イスとかないの」

「いや、ノープロブレムっす。自分、中学んときから立たされるのは慣れてるんで」

「ふーん、優秀な学生だったんだ。あ、ちょっと顔、斜めにして。そうそう」

 そんなふたりのやりとりを有名ブランドショップが並ぶオシャレな街の真ん中で不気味な色の甲殻類の生物を手にしてながめている自分の姿がショウウインドウに映っているのを見てようやく意識だけが体から離脱していた自分に気づいた。

あわててショルダーの紐を掛けなおし足を一歩二歩踏み出したところでちらっと嘉山リンを見た。

ぼくの視線に嘉山リンが気づいたのを確かめ、「恋敵」のアメリカザリガニを目の高さにもちあげるとぺこっと頭を下げた。
そのとき、嘉山リンが片目をつぶった、ように見えた。まばたきがそう見えただけかもしれない。でもたとえ錯覚だったとしてもぼくの脳内エンドルフィンはかってに大量のドーパミンを放出し全身の毛穴という毛穴から大量の汗を噴き出させた。


ぼくは急いでその場を立ち去りたかった。
しかし右足と右手がいっしょに前に出てうまく歩けない。
意識すればするほど動きがぎこちなくなっていく。

漢字をじっと見続けるとそのうち頭に刷り込まれていた文字が違うもののように見え始めうまく書けなくなる、あの感じに似ていた。

しかたなく小走りで走ってみた。すると足の回転数と腕の回転数がかみ合わずまるで上半身と下半身が別々に動いているようだった。

ただでさえ感覚がおかしくなっているところへ、楢崎こずえのアポイントの時間がもう目前に迫っていることに気づき、こんなことをやってる場合じゃないという焦りが両脚を高速回転させた。

そしてめったに使わない足の筋肉が攣り運動オンチの小学生みたく表参道の交差点のど真ん中で両手からスライディングしてしまったのは、ある意味当然の成り行きだった。




2016年01月18日

山田バンビ『アメリカザリガニとブラックホール』01

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少し開けはなした窓から細い糸のようなスペアミントの香りが夜気にまぎれて入り込んできた。

首を傾けたまま顔をあげ耳で匂いをかぐようにかすかに揺れるカーテンの向こう側に聞き耳を立てた。

しかしスペアミントの香りは一瞬でまわりの空気に溶けて消えた。


背中に刺さるふたつの目の気配を感じて振り向くと、シーリングライトの逆光で顔に濃い陰が刻まれたユキナが濡れた髪をタオルで拭いていた手を止め、ぼくの不可解な行動を戒めるように冷たい視線を投げている。

あわててさっきまで視線を泳がせていた水槽に目を移した。

金縛りが解けたみたいにユキナもまたタオルで髪を拭きだした。


「もうぜんっぜんわかんない」

溜息まじりにユキナが吐き捨てる。

「そんなちょーグロくてキモイ生き物がマジで好きなわけ? マジでー」

ユキナは水槽ではなく、苦笑しながら答えに窮しているぼくの顔を見ている。

「だいたいさあ、いつ食べんの、そいつ」

決断を迫る女性はイノシシのようだと思う。予想した答えが返ってくるまでまっしぐらに突き進む。

「まあ、そのうち」

水槽の中に魚肉ソーセージをまきながら、わざと小さなため息といっしょに気のない声で返事した。

「らっれほれ、はべるはめにはっへんへひょ?」

部屋の奥の洗面所から声がする。

「なんだってー?」

少し声のトーンをあげて聞き返した。

ガラガラゴロゴロとのどを鳴らし、タオルで口のまわりをふきながらユキナが入ってきた。

「いったよね、トオル。そのカクカクした生き物、食べるために飼ってんだって。でもさ、ホントのホントのホントにザリガニって食べられるもんなの? なんか口の中がガリガリしそうでひじょーに怖いんだけど」

ユキナが口をへんなふうに開く。

「そんなこといったらザリガニ様に失礼だろ。それに、なんだよ、ユキナだって食べてみたいっていってたじゃん。おいしかったら会社の腐女子どもに自慢してやるって」

「それは実物見る前! こうやって目の当たりにするとけっこう勇気いる」

ぼくの背中を突き刺すように怒った口調でそういった。

「なんかさ、怒ってない? さっきから」

「べつに」

どこかの女優もどき口調はわざとだ。

「だってさ、ヘンだよ」

「だからヘンなのはもうわかったって」

「そうじゃなくて。トオルのそいつを見る目が」

そういわれてようやくぼくはプラケースをかりかり掻いているアメリカザリガニからユキナに視線を移した。

「外で会ってるときはそんな目したことないくせに。この部屋にいるときはぜったいわたしよりそいつを見てるほうが時間長いよ」

「そんな目って。どんな目だよ」

「こーんな目だよーだ、ばーか」

ユキナにそう指摘されてはじめてぼくはその事実に気づいた。確かに部屋にいるときは水槽ばかり見ている気がする。



アメリカザリガニを飼いはじめたときは本当に「食べる」のが目的だった。

「おいしいよ」といわれていちどはチャレンジしてみたくなったのだ。

とはいってもなかなか調理する勇気がなく、半年が経過したころには、正直食べる気はすっかり失せてしまった。



家畜として庭で飼ってるブタや鶏に情が移ることはあるかもしれないが、少なくともユキナがいうように見るからに硬そうな甲殻類の生き物なんかになんの興味もなかったぼくが、いまこうして特別な感情でもってアメリカザリガニを見ていることが信じられなかった。

ユキナの手前、『食べる』ことを前提にアメリカザリガニを見なくちゃいけない状況下ではどうしても気のない返事をすることになる。

「ねえー、いつ食べんのよ!」

「だからー、そ・の・う・ち」

「来週? あさって? あした? わたしは今からだっていいよ、別に。トオルがさばいてくれるなら」

「さばくったって。その前にもっと調理法を調べないと」

「うそばっか。そんな気ぜんっぜんないくせに」

極細ジーンズをジャンプしてふとももねじ込みながらクローゼットに向かってつぶやいた。まるでだだこねた子どもみたいだ。


ザリガニに嫉妬するなんて。


思わずぼくは声を立てずに笑った。笑ったあと自分でなんとなくバツが悪くなり、また水槽に目をもどした。

ユキナはぼくよりふたつしか歳は違わないのに子供っぽいところがあり、それがよかったり、まためんどうだったりする。




ユキナとはどうやって知り合ったのかじつはよく覚えていない。

半年くらい前に狂ったようにクラブにかよっていた時期があり、たぶんそのころどっかのクラブで酔って声をかけたのだ。

なかば強引につきあわされていた編集部の後輩のタケゾーの証言を信じるとすればこうだ。

クラブに行くとまずアブサンとウイスキーをシェイクした『アースケーク』というその名の通り一口で頭に激震が走るカクテルを立て続けに何杯もあおり、そのあと見さかいなく女性に声をかけまくるのがいつものパターンだという。

見るからに年齢を偽って潜入したような女子高生からホストまがいの男連れまでそれこそかたっぱしから声をかけるもんだからトラブルになることも日常茶飯事でそのつど自分が仲裁するハメになるんだと、いまでもことあるごとにタケゾーが口をとがらせる。

あまりの乱痴気ぶりをいぶかしみ、アブない薬でもやってるんじゃないかと疑うタケゾーに何度も所持品を検査された。


ユキナもその「被害者」のひとりなんだろうが正確なところはいまだに謎だ。

ある朝、突然ユキナがぼくの部屋にやってきた。晴れた日の夕立のように本当に唐突な出現だった。あまりにも不意をつかれどこの何者なのかタケゾーに情報提供を求める間もなかった。

ドアの取っ手に手をかけたままトランクス姿で突っ立っていると、「約束通りエビのトマト煮作りにきたよ」そういって胸に抱えたスーパーの袋を見せるとさっさと部屋にあがりこんできた。

もう何回もこの部屋に来たことがあるというそぶりで。

部屋の中にずけずけとあがりこんできた「見ず知らず」の女性にどう声をかけるのが清廉潔白な男子として正解なのか、ぼんやりした頭の中を強引にシェイクするも思考の泡は片っ端からぷちぷちと消えていった。

トランクス姿で部屋のリングで格闘している僕のことなんかおかまいなしに、彼女は手ぎわよく料理を作り始めた。驚いたことにどこになにがあるのか彼女はしっかり把握していた。

「この前は白ワインがなかったでしょ、ほら、きょうはちゃーんと買ってきたよ」そういって紙袋からうれしそうにワインのボトルを取り出した。

「この前?」

 彼女の顔色が一瞬変わった。「そう、この前」。

「ああ、あ? そうだった?」

もうなんのことやらわけがわからないと訴える僕の両目を射るように彼女が見つめる。

「白ワイン、なかった、この前、たしかに」

白ワインを常備するほど、僕は美食家じゃない。

まるで「注文の多い料理店」に入ってしまったようだ。

いや、ここは僕の部屋だった。

彼女が勝手に入ってきて、ひとんちの包丁を勝手に研いでいるのだ。

とはいえ、起き抜けの頭はそれ以上回転しそうもないし、しかたなく僕はその場に座りこみ、彼女の小刻みに動く背中を見守った。



後日タケゾーに野田岩のうな重をおごって聞き出したところによると、青山のクラブで女友達数人と踊りにきていたユキナたちにいつもの調子で声をかけいっしょに飲んでいたはずがそのうちぼくとユキナがいなくなったのだという。

タケゾーがユキナの友達(しっかり自分もキープしていた!)にそれとなく聞いた話では、あのあとぼくはユキナを自分の部屋に連れ込み朝までいっしょにいた、らしい。

記憶がまるごと抜け落ちて覚えていないのだが、おそらくそのとき「エビのトマト煮」を作ってくれと頼んだようだ。

彼女は律儀に作ろうとしたが食材が足りず、今度来たときに作ってあげるとかなんとか約束したのだ。「したのだ!」なんてカッコよく断定なんてできるはずもないのだが。



ユキナが作ったエビのトマト煮は実においしかった。

そしておいしかったんだから別にそれでいいと思ってしまった。

彼女が何者でもそのときはかまわなかった。

いまさら「ところでさ、キミ、誰だっけ」なんて聞くわけにもいかず肝心な部分はあいまいなままぼくたちは(正確には知らないのはぼくのほうだけだが)つきあっている。

たぶんとっくの昔に聞いているであろう彼女の素性や住んでるところや勤務先なんかもその後の会話の端々からなんとか割り出したりして苦労した。


ただ、なぜぼくはユキナに「エビのトマト煮」なんか食べたいといったのか、それがいまだに謎だ。
手がかりのひとつとして考えられるのが目の前でむじゃきに触覚を動かしているアメリカザリガニの存在だ。自分でも気づかないうちに潜在意識の中に「食材」としてインプットされていたのだろう。




「きょうは帰るんだよね」

「なによ、そんなに追い立てなくたって帰るよ。あしたバイト早いし」

「じゃ、駅まで送ってく」

当然でしょ、無言の背中がそういっている。

ユキナは決して肉付きがいいほうではない。

どちらかというと痩せぎすだ。

上半身裸でジーンズのチャックを閉める彼女の肩甲骨が鶏肉の関節を思わせる。

ぼくも腰をあげ急いでチノパンをはいた。



エレベーターでマンションの一階に降り並んで駅まで歩いた。

空にはめずらしくみっつよっつ星が出ていた。

「あれがおとめ座のスピカだからこうたどって、ほら、春の大三角線だ」

「ふーん」

気のない返事をしながらユキナが夜空に向かって人差し指と親指で三角形を作った。

「ねえ、ユキナさ、ブラックホールって知ってる?」

「ブラックホール? ああ、新宿の焼肉屋でしょ? おいしいよねー、なーんて。ほんとにあるの? ブラックホール」

「すべての銀河の中心にあるっていう学者もいる。それ自体すっごく重くて、もう太陽の何百万倍何千万倍も重い天体で、そのとてつもない重力でなんでも吸い込んじゃうんだよ。まわりの星からなにからぜーんぶ。光まで吸い込んじゃうから見た目はなんにも見えない」

「ふーん、だからブラックホールなんだ」

「そっ」

「で? ブラックホールが、どしたの?」

「もし、それに吸い込まれたらどこ行くのかなあ、って」

ぼくは空を見渡し月を探した。ユキナは高層マンションの、ふと灯りがついた部屋を見ている。

「うーん、どこ行くんだろうね」

ユキナが足元に落ちていた空き缶を蹴った。

「宇宙の底とか?」

「底? 宇宙の底?」

ぼくは笑わなかった。ユキナに悪いと思ったわけじゃなく、本当に宇宙に『底』みたいな空間がありそうな気がしたのだ。


一年前のあの日、まばたきする間にアスファルトに焼きついたようなあの一瞬の時間も、小惑星やガスや光なんかといっしょにどこか宇宙の底にひっそりと眠っているんだろうか。

ぼくはジーンズのポケットに手をつっこんだ。遠くで電車が高架橋を走る音が聞こえた。